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逃がした魚のご利益

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『逃がした魚のご利益』

 初老の大島幸雄彼がいつこの町に来たのか、誰も覚えていない。これといって親しい人もなく、日中はどこか遠くの工場で働いているという噂があるが、誰も知らない。ただ、週末になると、海で魚釣りをしているということだけは、周りの住民に知られている。
 彼が住むアパートはもうとっくに建て替えてもいいくらい古いが、大家はその気がない。メンテナンスも十分ではない。そのせいで、アパート全体がかび臭くい。住んでいるのはみな行き場のない貧しい人間だけである。
この海辺の町に引っ越ししたときからずっと古いアパートの二階の角部屋で独り暮らしをしている。隣の部屋には、シングルマザーの長山ユキエとその娘で九歳になるサヤカが住む。隣同士だが交流はない。顔を合わせれば、挨拶を交わす程度である。
 
 ひょんなきっかけから、この大島はサヤカと知り合うことになった。その日は一日中冷たい雨が降り続いた。夕方、大島が仕事から戻ると、隣の部屋でサヤカが寒そうに震えながら立っていた。
 無口という評判の大島であったが、さすがに見過ごすわけにいかず「どうした?」と聞いた。
 するとサヤカは「鍵を落として、部屋に入れないの」と答えた。
 時計の針はもう七時を回っていた。
 サヤカの母親は二つの仕事を掛け持ちで働いていて、朝八時に部屋を出ると、夜の十一時近くまで戻ってこないということを大島は知っていた。
 大島はサヤカ自分の部屋に入れた。そして、粗末ではあったが、夕食を大目に作り食べさせた。はじめは物怖じしていたサヤカも、大島は案外優しい人間と分かると、警戒心を解き、夕食を食べ、食べ終わると、「ありがとう」と礼を言った。
その日を境にして、サヤカは大島を見つけると話かけるようになった。

 週末になり、大島がいつものように魚釣りに行こうとしたとき、サヤカがアパートの外で待っていた。
「どうした?」というと、
「一緒に海に行きたい」と言った。
 その日は穏やかであったが、曇り空で過ごしやすかった。
「つまらないぞ。それでもいいか」と大島が聞くと、
「いいよ」と答えた。
 車で三十分ほどのところに海辺があった。
 車から降りると、青い海が広がっていた。海から押し寄せる風は潮の香がした。
 サヤカは海辺の町に住んでいたが、海は見たことがほとんどなかった。母親がほとんど海に連れて行ってくれなかったからである。
「海は好きか?」と大島が聞くと、
 快活に「大好きだよ」と答えた。

 二か月後、冬に近づこうとしたときのことである。
 サヤカが入院した。体のどこかに大きな腫瘍ができて近々手術しなければならないという話だ。
 大島は病院に行き、見舞った。
 サヤカは泣きそうな顔をしていた。
「どうした、情けない顔をしているぞ」
 サヤカは「このまま死ぬかもしれない。でも、その方がいいかもしれない」
「死ぬことがいいことはない」と大島は怒鳴った。
「だって、お母さんをまた苦しめちゃう。うちお金がなくてお母さんは夜遅くまで働いて、いつも疲れた顔をしている。本当は楽をさせてあたいけど、何もできない」
 サヤカは泣いた。
 
その夜、大島は夢を見た。
 大魚を釣り上げた。すると大魚が涙を流し訴えるではないか。
「逃がしてください」
「どうして?」
「これから卵を産むのです。産んだ後なら喜んで釣られましょう」
 大島は渋々大魚を海に戻した。
 すると、隣にいた男。その男は面識がなかったが、とても懐かしい顔をした。
その男が「よくやった」と呟いたとき、はっと気づいた。遠い昔、死別した父親だった。
 そこで夢から覚めた。
 その日の午後、大島は魚釣りに出た。大魚ではなかったが、魚を釣り上げた。生きのいい魚だった。よく見ると、夢に出た魚に似ていたので、逃がした。
 翌日、サヤカの手術が行われた。手術は無事に終わった。

 退院したサヤカは大島にお礼を言った。そして「夢を見たの。夢の中で、おじさんが応援してくれた。嬉しかった。だから元気になれた」と嬉しそうに言った。
 大島はあの逃がした魚のご利益ではないかと想像した。

作品名:逃がした魚のご利益 作家名:楡井英夫