美幸の海
「海が好きです。海を見ていると、遠くへ行ける気がして、とても楽しい気分になる」
そこは海の見える丘にある公園である。春の昼下がり、光り輝く海を背にして、十九歳の美幸が口を開いた。
もう五十を越えた画家の野島は「がんにかかっているのに、どうしてこんなに明るく振る舞えるのか」と思いながら美幸を見た。一点の曇りのない笑顔だ。馬鹿なのか、それとも根っから明るいのか、野島は困惑した顔を隠せないでいる。
「変ですよね。がんができて、今度手術します。手術に失敗したら、死ぬこともあるのに。でも、海を見ていると、死ぬなんて思えなくなる」と美幸は微笑んだ。
野島は風景画を得意として人物画をあまり描いたことがない。それが数日前、知人を介して山下という人物が来て、娘の美幸を描いてほしいと頼んできたのである。山下も無骨な男で理由は言わず百万で描いてくれと頼んだのである。野島は二つ返事で了承した。
野島は行き詰っていた。風景画だけを描き続けても、もう先はないと思っていた。人物画を描いて新しい境地を開こうと思っていた矢先、山下から依頼である。二つ返事で引き受けた理由はそこにあった。
「がんになったら暗い顔しないといけない? がんの話をすると、みんな不思議そうな顔をするの。どうしてそんな明るく言えるのかと」
野島はまた美幸の顔を見た。明るくて、まるでひまわりのようである。
「悲しくないのか」とぶっきらぼうに聞いた。
「悲しい。だって、乳房を切られるのよ。がんと分かったとき、死のうかと思った。でも、ある日、父に連れられて海に行った。ふと、遠い昔、幼かった頃、父が私の手を引いて、船を見に行ったことを思い出した。すると、あの時のことがいろんなことが思い出された。……父の手の温もりやいつも優しく見てくれたこと。父を残して死のうと思うことが恥ずかしくなって……そのときに気づいた。命を大切にしないといけないと」
海を見ている彼女のスカートがまるで帆船の白い帆のように風を孕んだ。しかし、スカートが揺れるのを全く気にせず、飛びそうになった帽子を押さえるだけだった。風は彼女の長い髪をなびかせ、そして豊かな乳房の輪郭を露わにした。そのポーズが面白くて、野島は無心でスケッチをした。
しばらくして、彼女は「野島さんは、風は好き?」と聞いた。
「いや、好きじゃない」
「私は好き。小さいとき、風を背にすると風を受けた船のような気分になれた」
そうだ、白い帽子を被った彼女が甲板の上で立っている絵にしよう。風を受けてスカートが揺れているが一向に気にしない。海を背に謎めいた笑みを浮かべている。そんな構図だ。
スケッチを終えた野島が呟くように言った。
「誰かが言った。大人は自分自身を演じる役者だと。でも、俺はいつも作っている人間は嫌いだ。笑いたいときは笑えばいい。泣きたいときは泣けばいい。ましては、女はその方がいい」
美幸ははっとした。自分の笑顔が幾分不自然であることに気づいたのであろう。
その夜、友人の茜が美幸を訪ねた。茜は同じ短大に通っている。震災で家も家族も何もかも無くし、叔母夫婦のもとで生活している。想像もできない辛い経験をしたはずなのに明るい。 時々、二人は互いの部屋に寝泊まりする仲である。
「ねえ、茜はまだ彼氏と付き合っているの?」
土木関係の仕事をしている浅黒い男のことである。
「ときどき会っている」
「どんな関係なの?」
「普通の男と女の関係よ。会ってお話をしたり、セックスしたり……」
「それが普通?」
「普通よ」
「私はそんな経験していない」と美幸は呟いた。
「まさか処女なの?」
「処女じゃないけど。まだ、いい男と出会っていない」
その時なぜか野島の顔が浮かんだ。
「前に言ったけど、震災で何もかも失って、気づいたの。人は独りでは生きていけない。誰かとつながっていないと生きていけない。それから男がそばにいないと生きられないようになった。セックスは男と女を結びつけるもの神聖な儀式よ」
数日後、美幸のがんの手術は無事に成功した。
病院のベッドの中で美幸は野島のことを思っていた。あの鋭い眼光。決して作り笑いをしない性格。そして絵を描くときの細くて長い指。それらが次々と脳裏を過った。
野島は絵を完成させると、山下家を訪ね絵を引き渡した。美幸の手術の日から一週間後のことである。もう美幸と会うことはないだろうと思いながら山下家を後にした。
それは夏のことだった。突然、美幸が野島の前に現れた。雨の中が降る中、傘を差さずに来たせいか、びしょ濡れだった。野島は風邪でも引いたらまずいと思い、急いでシャワーを浴びさせた。しばらくして、一糸も纏わぬ恰好で野島の前に現れた。
「私、綺麗ですか?」
美しいヴィーナスのようであった。不思議と性欲は起こらず、むしろその美しさに心が引かれた。美しい乳房にどこにも傷の後が見えなかった。 男物のシャツとズボンを貸した。
「綺麗だ、とても」
「私、先生のことが好きです」と美幸は告白した。
野島は照れもせず、「嬉しいよ」と答えた。
女性から愛を告白されたのは一度や二度ではない。燃えるような愛をしたこともある。けれど、愛が成就することはなかった。女たちから離れ、いつしか禅僧のような生活に送るようになっていた。それゆえ、美幸から好きだと言われても、さほど心がときめなかったのである。
「海に行くか」
スケッチをした場所に行った。
野島は呟くように「俺は脳梗塞にかかったことある。幸い大事に至らなかった。でも、生死をさまよい、辛うじて生き延びた。その時、残りの人生を大切にしようと決意した。あれからタバコも、酒も、女からも離れた」
「もう恋することはないの?」
「あるかもしれない。でも、君ではない。年も離れ過ぎている。君はまだ男をよく知らない。そんな女は苦手だ」
「随分優しい言い方。でも、私は結局、振られたのね。そうなると思っていた」
「まだまだ先がある。自分を大切に生きろ」
「いつか、また先生の前に現れていいですか?」
「歓迎するよ」
「その時は抱いてください。もう帰ります」
白いワンピースを着た彼女の後ろ姿はまるで海の上を走る白い帆船のように優雅で美しかった。一夜の恋があっても良かったかなと思いながら見送った。