そして独り残された
人格者と評判の高かった高山浩司は名門の出である。一族はみな教育や医療、政界で活躍している。彼も十年前に高校教師から政界に出た。今や昇る竜のごとく勢いがある。欠点などどこにもないように見えるが、唯一、うまくコントロールできず歯がゆく思っているのが、息子の孝夫である。彼が敷いたレールをことごとく否定して生きている。
「お前を見ていると疲れる」
「僕も父さんの顔を見るとうんざりする」
「だったら出ていけ!」と怒鳴った。
それが最後の会話だった。以来、父と息子は会話らしい会話を交わしたことがない。
今は大学にも行かず、自由気ままにアルバイトをしながら絵を描いている。そのうえ、素性の知れない年上の女と暮している。
高山浩司が人格者というのは表の顔である。裏では、いろんなことをして、手を汚してきた。それに愛人も囲っていた。妻の昌子は直ぐに気付いた。しかし、愛人ができたことになじることはしなかった。なぜなら、彼女は浩司の子ではない男の子孝夫を孕み生んだという後ろめたさがあったからである。幸い血液型が一緒であったので、自分の胸の奥に秘めて黙っていた。その秘密は墓場まで持っていこうと決めてきた。それから十八年の歳月が過ぎた。表向きは誰の目からも羨むような幸せな家庭であったが、実際はガラス細工のようなものでできた、偽りの幸せであり、ほんのちょっとの刺激で、そのガラス細工は脆く崩れてしまうのだ。
妻が突然倒れた。
数日後、浩司は妻に呼び出されて病室を訪れた。
「あなたに愛人がいることはずっと前に知っていました」
浩司は妻を見た。妻は遠く夏の空を見ていた。
浩司は動じることはなかった。なぜなら、愛人ができたことは知っていても、子供はできたことはまだ知らなかったからである。いや、永遠に知ることはない。なぜなら、彼は愛人の子を強引におろさせたのだから。
「知っていたと思っているよ。今、そのことで俺を責めるのか? 」
「安心してください。私にはそんな気がありません。私の命はもう長くありません。あなたのことだから、そんなことは先刻承知だと思います。そんなことを言うためにあなたに来てもらったのではないのです。あなたにお願いがあるのです。あの子をもう責めるのは止めてください」
あまりの唐突なことだったので浩司は「何を突然言い出すんだ」は憮然とした。
「いずれ、分かるでしょうから、死ぬ前に言います。あなたの子ではありません」
浩司は半ば強引に妻を手に入れた。妻の実家の借金を背負うという条件で。妻に恋人がいるのを知りながら、強引に結婚を申し入れたのである。妻の父親は借金取りに追われていたので、結婚の申し入れを素直に受け入れ、娘を説得したのである。しかし、妻は体を許しても心は開かなかった。結婚して一年後、子供ができた。ずっと自分の子だと信じていた。
「何を唐突に言い出すんだ。俺の子ではないなんて!」と思わず狼狽した。
「DNA鑑定すれば分かることです。あなたの血を引いていませんから、もうあなたの理想を押し付けたり、暴力を振ったりするのは止めてください」
それが最期の一言だった。
妻はあっけなく死んだ。
やがて愛人も子供をおろされたことで愛想を尽くし去っていった。息子はもう自分の子供ではない。浩司は独り残された。