都会の孤独
誰が見ても涼子は幸せそのものだった。良き夫と結婚した。マンションを買った。夫は同期の誰よりも早く出世した。そして彼女自身も、東京駅のそばにある大きな会社で順風に出世の階段を上り始めていた。幸福の絶頂期にあった。だが、次の瞬間、転落物語が始まった。
昨年の春、桜が咲く頃である。
彼女は大きなプロジェクトを任された。それだけの仕事をできると上司が見込んだからである。そのプロジェクトを無事に終えれば、課長になれるはずだった。彼女はその期待に応えるために頑張った。帰りはいつも九時過ぎ近くになってしまった。しばらくは夫が料理して待ってくれた。だが、彼女は遅くなるのが三か月も続くと、さすがに夫が料理して待つことはなくなった。
さらに夏が終わる頃には、夫が先に帰って妻を迎えることはなくなった。どこかで夕食をすませ、さらに飲んでから帰宅するようになり、残業する妻より帰りが遅くなったからである。
プロジェクトが中盤にきた晩秋のある日のことである。些細なことで夫と喧嘩になった。
「君は僕と結婚したのではなく、仕事と結婚した」と夫がなじった。
「そんなつもりはなかったの。今、頑張れば、次が楽になると思ったから頑張ったの。もうしばらく我慢して」
「俺には関係ない」と夫は冷たく言い放った。
そのとき、目の前にいる夫が別人のように見えた。それからだろう、失敗して「ごめんなさい」と素直に謝っても、何の反応も示さなくなったのは。以前なら優しくいたわりの言葉をかけてくれたのに。
彼女は人一倍がんばってきた。頑張れば、きっといい結果があると信じていた。だが、仕事に頑張り過ぎた結果、夫との関係は夫との関係は完全に冷え切ってしまった。頑張ってきたことに何の意味があるのかという疑問が生じた。その疑念が心のどこかでくすぶり続けた。
初冬のある日のことである。取引先との打ち合わせの最中、相手方の一人から、
「女に何ができる」とあざ笑うような言い方をされた。うまく反論できなかった。そのことがきっかけになり、彼女の中にある歯車が少しずつ噛み合わなくなっていった。
夫が「分かれよう」と言い出した。
「どうして?」
「君のことが好きになれなくなった」と言った。
「他に好きな人ができたの?」と彼女は聞いた。
すると、彼はタバコに火をつけた。緊張すると、いつもの癖だった。
「そんなことはどうでも良いことだ」
彼女は夫の性格をよく知っていた。一度決めたことは簡単に曲げない性格である。
「この家を出る」と言って出て行った。その日を境に戻らなくなった。いつの間にか、彼の衣服や持ち物がなくなっていた。
二週間後、夫から郵便物が届いた。離婚届と一枚のメモ用紙が入っていた。マイホームは慰謝料の代わりにくれてやると書いてあった。たった数行である。十五年という長い結婚生活の幕を引くには、余りにも侘しいと思った。すると、涙が止めどもなくこぼれた。翌朝、判を押して送り返した。
冬も半ば、涼子は自分の中にあるものが少しずつ崩れていくのが分かった。言動や行動がおかしくなった。そのせいでプロジェクトもうまく進まなくなった。
彼女は上司に呼ばれた。
「もう少し頑張れると期待していたが、どうもそうではないようだ」
相変わらずクールな上司だと思った。彼なら肉親に対しても死刑を冷酷に告げられるのではないかと思った。
「分かりました。プロジェクトを降ります」
「そうしてくれ」
たった数分で決まった。暇な部署に回された。早く帰宅することができようになった。早く帰っても、誰もいない。その寂しさを埋め合わせが何もないのに気づくのに時間がかからなかった。料理は嫌いじゃないが、自分ひとりのために手の込んだ料理をするのは馬鹿馬鹿しい。音楽も随分と聞いていない。これといった趣味もなかった。家に戻ると、簡単に料理を作り、そして、ただテレビを観て過ごす。そんな繰り返しだった。やがて、彼女はうつ病になり、三か月に渡って会社を休んだ。会社に戻ったとき、彼女の居場所がなく、会社を辞めることにした。
再び春がめぐってきた。
突然、母が病で倒れた。その一か月後には亡くなった。あっけない最期だった。足の不自由な父を世話するために、マンションを売り、実家に戻った。
派遣の仕事を始めた。僅かな収入と父の年金が生活費だった。贅沢はできなかったが、何とか生きていけた。
父と二人きりの食事。これといった会話がない。もともと父は口数の少ない人だった。
「たまにはおいしいとかまずいとか言ってよ」と父に文句を言うと、父は苦笑いをして、「普通だ」と応えるだけだった。それが不器用な父の褒め言葉だった。
結婚する前はよく、「結婚しろ、それが女の幸せだ」と言った。実家に戻ってきてからは、結婚という言葉を一度も口にしなかった。父がどんな思いでいるか、容易に察することができた。
庭には、亡き母と一緒に植えた草木が青々と茂っている。そんな庭をぼんやりと眺める父を見つけた。何ともいえない寂しい横顔だった。きっと孫がいたなら、こんな顔は寂しい顔はしないと思った。どうすることもできない自分に苛立った。
父が病気で入院したのは、母が亡くなってから三年後の春のことである。容態が悪かったので、看護するために派遣の仕事を辞めた。夜になると、父が死んだ後のことを考えるようになった。そして、独りぼっちになった自分を想像して泣いた。悪いことに、想像したとおりになってしまった。数か月で亡くなってしまったのである。暦の上では、もう夏になっていた。
彼女が再び派遣の仕事を始めたのは、秋になってからである。
派遣先は前の会社の近くである。三年ぶりに東京駅で降りた。あまりの人の多さに驚いた。そして、こんなに多くの人がいるのに、あらためて、自分につながる人が一人もいないことに気づき、崩れそうになった。彼女の頬から一筋の涙が流れた。けれど、誰も気に留めてくれなかった。