勝手にしろ
カリナは西島アツシと結婚した。数年後にタカシが生まれた。そのタカシも就職を決める歳になった。タカシは父親に向かって、「東京の会社に勤めたい」と言った。
カリナはじっとアツシを観察していた。アツシはがっかりした表情を隠さなかった。それを見て苦笑せざるをえなかった。直ぐに顔を表れるのは昔から変わらない。
「あなた、子供は子供よ。自由にさせたい。ずっと前、あなたはそう言っていたでしょう?」
「そう言っていたかもしれない。でも、子供が東京に就職するとなると、それは別問題だ。この家はどうなる?」
「なるようにしかならないでしょう」とカリナは微笑んだ。
「お前はいいさ。実家がある。でも、俺はここが実家だ」
カリナはまた苦笑せざるを得なかった。進歩的な人間と自他とも認めるアツシが封建時代の名残のような家という概念に縛られている。一皮剥けば、嫌っている保守的な人間と大差はない。そのことに気づいていない。
「どんな名家でも三百年は続かないと言った人がいます」
「誰が言った?」
「忘れました」
「お前はいつも肝心なことを忘れる」
アツシにとってはどんな場合でも、言った内容よりも誰が言ったかを重要視する。カリナにとっては本末転倒に思えたが、口にはしなかった。カリナはそれよりももっと重要な問題があった。それは、一人息子のタカシが就職したら、離婚もしくは別居し、実家に戻り具合が悪い実母と一緒に暮らそうかと考えていたのである。しかし、なかなか言い出せずにいた。アツシは定年前にはあれをやりたいとかこれをやりたいと夢を語っていたのに、いざ定年の一年前になると、何も言わなくなったのである。普段はさほど会話を交わしていない息子が東京に就職すると言ってからは急に老け込んだように見え、哀れで仕方なかった。
ある日、カリナが衣服の片づけをしていると、アツシがそばに寄って、
「お前、どこか行くのか?」
「え、どうして、そんなふうに思うの?」
「服を片づけている後ろ姿を見ていたら、そんなふうに思った」
カリナは大笑いした。それが実に楽しそうに体を揺らしたので、アツシは憮然とした顔で、「そんなバカみたいに笑わなくてもいいだろ」
「ごめんさない」
きまり悪そうに去ろうとするアツシに言った。
「これからのことだけど、前に言ったことを覚えています」
「何のことだ?」
やっぱりそうだった。カリナは想像できだことだったが、かっかりした。
「実家に戻らせてもらおうかと思っています」
アツシは憮然として、「なんだ、そのことか。結婚したときに実家を出たんだろ? 何で今さら戻る必要がある?」
「母の具合が悪いの」
「お兄さんがいるだろ? 親の面倒は長男が見るのが普通だ」
長男は母親の面倒をみる気は全くない。妹のカリナに「財産はお前がみんなもらっていい。代わりの母親の面倒を見ろ。介護ができなくなったら、どこかの施設に入れればいいさ。間違っても、俺は引き取ることはできない。東京のちっぽけなマンションじゃ、とても一緒に住めない。何よりも妻が嫌がっている」と言った。母親は「いいのよ。誰の世話にもならない。自立していけなくなったら、どこかの施設に入れてよ」と言っていた。だが、その施設に入れる資金な余裕もないし、第一、空いている施設がない。
「タカシも来年には東京で独り暮らしを始めるし、これからお互いに自由に生きましょう。あなたもそうしたいと言っていたでしょ?」
「お前に言われなくとも自由に生きるつもりだった。お前が実家に戻りたいと言うなら、そうしろ。でも、渡す金はないぞ」
アツシは冷たく言い放った。
「分かっています」
それで二人の会話は終わった。アツシは安堵した。きっと思い止まってくれたと思ったら。
冬の終わり、息子は家を出た。
春になって、アツシが退職した。退職金で、釣り道具、カメラ、それに車を買った。カリナは何も言わなかった。
夏がなろうとしたとき、突然、荷物を持ったカリナはアツシに言った。「約束通り、家に戻ります」と言った。
アツシはさほど気に留めずうなずいた。きっと直ぐに戻ると思っていたのである。母親と二人でやっていけるほどの金はないと高をくくっていた。けれど、カリナが密かにパートをしたりして、結婚してから五百万近い金を蓄えたことを知らなった。ずっと前からアツシに見切りをつけていた。おそらく子供ができなかったら、もっと前に別れていたことは違いない。自分を家政婦扱いするアツシにずっと我慢してきたのだ。子供が自立したら別れよう。そう思い続けてきたのだ。
一週間が過ぎても、カリナは戻らなかった。さすがに気になったのか、アツシは電話をした。
「いつ戻る?」と聞いた。
「戻りません。あなたも、自由気ままに生きてもらってもかまいませんから」とカリナは淡々と答えた。
「俺のことが嫌いになったのか?」
「もともと好きじゃありませんでした。知りませんでした?」
「勝手にしろ」と言ってアツシは切った。
それが二十五年続いた夫婦生活の終わりの言葉だった。