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シングルマザー桃子の決断

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『シングルマザー桃子の決断』

桃子が海の見える街Xに引っ越してきたのは、三か月前のことである。娘のハンナを近くの小学校に入れた。しばらくして、娘に友達ができた。やがて、その友達の母親である春奈と、桃子は親しくなった。
春奈は「あら、シングルマザーなの? 大変よね」と同情した。
その同情の言葉の中に幾分の軽蔑の念が混じっていることに桃子は気づいたが、無視した。シングルマザーになってもう八年が経つ。別れた夫に対していかなる感情も無かった。ろくに働くことのできない最低の男だという冷やかな感情以外は。
「そう見えます」
少し挑発的な口調で言ったが、春江は一向に気づかない。彼女は繊細のようでちっとも繊細ではないのだ。
「うちなんか夫婦二人で働いても生活するのが精一杯なのよ。それに将来に貯えが何もできない。とても不安でたまらない」
「二人で働いて大変なら、私は一人だからもっと大変よ」と桃子は笑った。
すると、春奈は同情の視線で桃子を見た。桃子は彼女の視線に一瞬微笑んだものの、すぐに窓の外に目をやった。
そこは川辺に面した喫茶店である。大きな窓から五月の川が陽射しを浴びてきらめいているのが見える。時折、海に向かう船が視線を遮る。この町に引っ越しして正解だと思っていた。できるなら、ずっと娘と二人で穏やかな時を過ごしたいと思っていた。できるならママ友などとあまり深く関わりたくはないというのが本音だったが、その結果、娘に悪影響が出るのも避けるために仕方なく付き合っている。ただ、仕事で追われて生きている女のふりをした。

春江は何かについて桃子に近寄ってくる。その度に聞かされるのが、亭主の悪口だった。鼾がうるさいだの、給料が少ないだの、言いたい放題だった。いや、春江だけでなく多くのママ友が同じようなことを言っているのには呆れた。心の中で、そんなに悪口を言うのなら、さっさと別れてしまえばと叫んでいた。
「桃子さん、結婚しないの?」と春江から聞かれたときは驚いた。
「どうして?」
「だって、独りだと不安じゃないの」
「結婚して、どんなメリットがあるの?」という言葉が思わず出そうになった。

友人に明菜がいる。明菜とはもう十年近く友人関係である。その明菜が飲んでいるときに同じくらいの年齢の男と同棲していると告白した。
「セックスの相性が良いのかしら、離れられないのよ」と平気で言う。
「良いわね。私はもう八年近く、セックスをしていない。仕方も忘れてしまった」と桃子は笑った。
「何を言っているのよ。セックスは肉体と心の結びつきよ。形はないわ。本能の命じるままに体を動かせばいいのよ」
「明菜は変わっていないな。昔から」と桃子は笑った。
「一番大切なのは生活よ。その中でセックスが最も大切なことなの」
「子供は作らないの?」
明菜は顔を曇らせた。桃子は直ぐに聞いてはいけないことを聞いたことに気づいた。
「ごめんなさい。変なことを聞いて」
「いいのよ。ねえ、たばこを吸っていい?」と明菜は聞いた。
明菜は動揺すると必ずタバコを吸う。
「私は子供を産めない体なの。小さい時の病気が原因で。彼もそのことを知っている。ひと昔なら、石女と言われた」と明菜は笑ったが、その顔は歪んでいた。
「私は結婚しない。彼が、子供が欲しくなって、別の女のところに行こうと、私は追いかけない」
誰もが、みな何かしらの苦しみを背負って生きている。百パーセント幸せな人間はこの地上にいないと桃子はあらためて思った。

春江は良い人だが、全くの善良の人ではない。何かと心配をするふりをして、あれこれと他人の生活に入り込む。それが桃子を妙に苛立たせていた。とうとう桃子は春江とその取り巻き連中に向かって怒りを爆発させた。
「夫がいて、子供がいると、女はみんな幸せなれるのかしら? 幸せな女がどうして、亭主のいないところで、安月給だの、甲斐性がないだの、セックスしないだの、と不満を言うのかしら?」
春江は「それはどういう意味?」と聞いた。
「もう、あなた方の亭主の悪口は聞き飽きたのよ。私がこの町に引っ越してきたのは、あなた方の愚痴を聞くためじゃない」と桃子は毅然と言い放った。
桃子はその時、ママ友と別れる決心をしていたのである。娘を少し高い私立にでも転校させようとも考えている。