かおをあげなよ、なんかたべなよ
はじめのころは心配したし、動揺したし、イラついたりなどもしたけれど、今は、そうやって悩むことが彼女の原動力なのだと理解している。机につっぷしたまま動かない時間は、五分だったり三時間だったり色々だけど、たいてい夜までには復活して、「ごめんね、おわった! おなかへった!」などと僕に抱き付いてくる。
今日は久々の発作で長引いているようだ。奈央が机につっぷしているから、僕は二人分の餡かけ焼きそばを置く場所に困った。
「ごはんできたよ。」
声をかけると、奈央は顔を伏せたままずるずると横にずれ、餡かけ焼きそばをおくスペースをあけてくれた。テーブルに夕飯を並べて、お茶をいれても、奈央は顔を上げない。
「かた焼きそば、ぱりぱりが好きでしょ。餡かけちゃったよ。早く食べようよ。」
「ごめん。」
ごめんじゃない。そんなことは許されない。奈央が悩む時間を僕は尊重しているけれど、それと同じくらい、僕がつくったご飯を二人でおいしく食べることは尊重されるべきだと、二人で決めたことなんだから。
「奈央、ごはんできたら顔をあげるって約束したでしょう。」
「ごめん。」
「ごめんじゃなくて。どうしたの今日は。」
「なんか……深い。暗い。」
「奈央さん、意味がわかりません。」
僕は半分あきれているけど、半分楽しんでいる。こういうときの奈央の顔を、あの手この手で上げさせるのが、けっこう好きだ。ベットのふちに腰を掛けて、おいで、というと、奈央はもぞもぞと体をうごかして、僕の膝の上に顔を伏せた。
たぶん、ほとんど調子は取り戻していて、ちょっと甘えたいだけなんだろう。その頭をなでながら、どう話をもっていこうかなと考える。
「あのね、奈央。暗闇は、じっと見つめているとますます見えづらくなるんだよ。」
奈央は目線を上げて、僕をにらんだ。 こういう青春ドラマっぽいセリフが嫌いなのだ。
「またそうやって、どこかで拾った他人の言葉ばっかり借りて。なに?どこからの引用?」
「わかる?実は最近読んだ本にかいてあった。」
「馬鹿みたい、胡散臭いセリフ。」
「胡散臭くないよ、高校の教科書だ。」
奈央が眉間にしわを寄せる。
「……現代文?」
「まさか、生物だよ。胡散臭くない。科学的根拠に基づいている。」
「は?」
「何かを凝視したときに、その像が結ばれる網膜上の点には、暗所でものをみるときに使う細胞がないんだ。だから、暗闇でじっとものを見ても意味がない。」
「何の話?」
「視細胞の話だよ。何の話だと思った?」
奈央は顔をあげて、返事の代わりに不服そうに鼻を鳴らした。犬みたいだ。
「暗順応っていってね、馴れるんだよ、暗闇には。最初は何も見えなくても、だんだんロドプシンが合成されてね、それで細胞がはたらいて、暗闇もちゃんと見えるようになる。待っていれば勝手にそうなる。」
「知ってる。」
「そう。でも、ロドプシンの合成にはビタミンAがいる。にんじんとか、レバーとか。」
「ほう。」
「だから、ごはんをたべなさい。」
「……うん。」
奈央はまた体をもごもご動かして僕に背を向けて、テーブルの方に目を向けた。
「餡かけ焼きそばだ。」
「さっき言ったじゃん。」
「うん…… あれ。」
機敏な動きで僕の方に振り向いた。
「ねぇ! これ、にんじん入ってないんですけど。」
「買い忘れた。ごめん。」
僕は笑いながら、奈央の隣に座ってその顔を覗き込む。
「機嫌はなおりましたか?」
「にんじんないからなおらない。」
「うずら。うずらもビタミンAたっぷり。」
僕はうずらの卵を箸でとって、奈央の前までもっていく。食いつくかな。
あ、食いついた。
もぐもぐとうずらの卵を咀嚼した後、奈央はようやく僕の目をまっすぐみてくれた。
「ごめんなさい、きげんなおった。おなかへった。」
「はいはい。」
「いただきます。」
「いただきます。」
作品名:かおをあげなよ、なんかたべなよ 作家名:小早川たき