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キスマーク

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 妄想が始まった。キスマークをつけたのは、あの若い男であり、そして夜毎、激しく愛し合っているだけでなく、遠くヨーロッパに連れて行こうとしていると。妄想が嫉妬に変わり、嫉妬が愛を駆り立てた。月二回の逢瀬に我慢できなくなり、月四回にした。それでも、もっと独占したいという欲望が起り、ナオミのマンションに訪れることにした。今まで誘われても行かなかった。深い関係になるのを恐れたためである。
ナオミのマンションに近くに行って、電話した。ナオミはすぐに電話に出た。
「どうしたの?」
「近くまで来た」
「外は暑いでしょ?」
「暑い」
「部屋に来る?」
 どうやら彼はいないようだ。
「うん、水をもらえると嬉しい」
「喉の渇きを癒すビールくらいごちそうするわ」
 胸のときめきを押さえながら、正平はチャイムを押した。
 ナオミの部屋に招き入れた。
 部屋は小奇麗だった。窓から街が一望できた。
「良い部屋だな。家賃は高いだろ?」
「そんなに高くもないわ」とナオミは笑った。
 正平はビールを飲み干すと、ナオミを突然抱きしめた。だが、ナオミは拒絶しなかった。まるで、そうなることを予想していたかのように。
 裸にしたとき、キスマークを確認した。もうなかった。妙に安心感を覚え、貪るようにナオミを愛した。二つの体が離れた後、正平は聞いた。
「ヨーロッパ行きはどうなった?」
「どうにもならないわよ」
「行くのか?」
「気になる?」
「いや、別に」
「そうでしょう」
「そうでしょうって、どういう意味だ?」
「だって、人のことを気にするタイプじゃないもの」とナオミは答えた。
 ナオミの顔に何の感情も表れていなかった。そのとき、正平は自分との間に線を引いていると感じた。「その線の中に入らないで」と無言のうちに言っているのだとも思った。
 正平は服を着て、「帰る」と告げると、
 ナオミは「一週間後、店を辞めるの」と言った。
「どこへ行く、ヨーロッパか?」
「まだ、決めていないけど。でも、ここには、もう居ない」
「あのキスマークを付けた男と一緒に行くのか?」と言う言葉が喉まで出かかったが、何も言えなかった。
 ただ呟くように「そうか」と言っただけ。
「もうじき三十歳になる。三十になるのは、ずっと嫌だった。嫌だと思っても、無視しても、その時が目の前に差し迫っている。ある時、三十という壁を乗り越えなければならないことに気づいたの」
「壁を乗り越える? 乗り越えた先に何がある?」
「分からない。でも、壁の向こう側には、きっと今と違う世界があると思っている。だから、ここでは居ないし、あなたに抱かれるのも、今日でおしまい」
 正平はナオミを見た。冷めていて、それでいてどこか誇らしげな表情をしていた。愛が完全に終わったことを知った。正平は自分がとてつもなく惨めな存在に思えてきた。三十になろうとする若い娘が人生の壁を感じ、五十を過ぎた自分はキスマークで妄想に駆られている。どこか滑稽な戯画のように思えて、泣き出したいくらいの惨めな気分になった。そんな顔を見られたくはかったので、背を向け、直ぐに部屋を出た。その足取りはまるで重い荷を引きずっているように見えた。

作品名:キスマーク 作家名:楡井英夫