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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 1~3

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 伶次は口を曲げてまたメニューに視線を落した。
 反抗してみたかったのか結局イカと明太子のパスタを注文した。
 高木が葉月の肩を叩いてくる。

「こいつさあ、嘘つくのがうまいから騙されないようにね」

 内緒話のような口調だったが、高木の声は伶次に届くくらいに響いていた。

「やめてくださいよ!」

 伶次は食ってかかるように高木にむかってテーブルごしに腕をのばしたが、高木はうしろにのけぞって口元に笑みを浮かべた。

 そこへ伶次がおしぼりを投げたので、かわすことができずに高木の胸のあたりに命中した。
 葉月は思わず笑ってしまったが、真夜はグラスの中で溶けてゆく氷をじっと眺めていた。



 午後七時の開店から十分ほどして観客が続々と集まってきた。
 知らない人物が大半だったが、部活仲間も多く来てくれているようだった。

「おーおー、久々の大入りじゃない」
「全席、埋まりそうな勢いですね」

 高木と伶次は口々にそう言いながら客席に姿を消した。
 ほとんどがあの二人の知り合いなのだろう。

 真夜も数人の女子学生が座ったテーブルで何やら話しこんでいる。
 同じ大学の人たちなのだろうか。
 ゆるいウェーブのかかったロングヘアの女性がしきりに真夜の手を握ったり腕をからめたりしているのを見て、例の彼女なのかもしれないと思った。

 メニューをもった従業員が観客たちを席に案内し、キャンドルにひとつ、またひとつと火が灯ってゆく。
 談笑は少しずつにぎやかさを増し、次々と酒や料理が運ばれてくる。

 ステージの照明はいつのまにか落とされ、客席に近いヴォーカル用マイクがひときわ浮かび上がって見えた。

 風子に声をかけられて、葉月はふりむいた。
 普段のマニッシュな格好とはうって変わって、珍しくワンピースを着ている。
 初舞台にと、小さな花束まで持ってきてくれていた。

「ねえ、あれから鞍石さんとうまくいってる?」
「だからそんなんじゃないって」

 風子の声が思いのほか大きく響いたので、葉月はあわてて店の隅に引っぱっていった。

「だって葉月をヴォーカルに起用したのって鞍石さんなんでしょ? 前からあんたのこと見てたってことじゃない。あんな風にニコーッて笑う鞍石さんなんか初めて見たわ」
「高木さんがいるからじゃないの」

 食事中、高木は伶次をからかい続けていた。
 そういえば一緒に食事をとることも、あんなに屈託なく笑う伶次の姿を見るのも初めてだった。
 まるで兄弟のように仲のいい二人の付き合いは、いつ頃から始まったのだろうと、ふと考えた。

「いーや。絶対あんたに気がある」
「はいはい、わかったから、席についてね」

 葉月はため息をつきながら、客席まで風子の背中をぐいぐい押していった。

 真夜の姿が客席にないことに気づき、すし詰め状態になった人たちを押しよけて店内を巡った。
 彼はグランドピアノの裏側にあるスペースにしゃがんでいた。

「何してるの、こんなとこで」
「帰りたい」

 真夜は力なく首を垂れて言った。

「絶対失敗する。知ってるんだ。ゆうべ神のお告げがあったから」

 クリスチャンでもないのに手をくんでお祈りの恰好をしている。
 ここでは何度もライブをやったことがあると伶次から聞いていたが、緊張しているのだろうか。

 自分よりもはるかにライブ経験の多い真夜を励ますなんて、おかしなことだなと思いながら葉月もしゃがみこんだ。

「何言ってんの。あれだけ練習したんだから、失敗なんてしないよ」
「いや、するね。そして大ブーイングではりつけの刑。アーメン」
「大丈夫だってば」
「じゃあ一緒に帰ろう。そうしたら失敗もブーイングもなし。めでたしめでたし」

 真夜と会話をしていると調子が狂ってくる。
 必要以上に緊張しないために、本番前は友人と会話をしたり店内を見渡したりして気持ちをそらしているのに、真夜の張りつめた神経に引きずりこまれていく。

 真夜は黙って足を抱えたままだ。
 何も話さないでいると、口が閉じたままかたまってしまいそうだ。
 あごの動きがぎこちなく、喉が塞がっていくようだった。

「どうした?」

 伶次がチューナーを取りにやってきた。
 本番までまだ十五分以上あるが、一足先にチューニングをすませるらしい。

「真夜が帰りたいって言うんです」
「こいつ、毎回言うんだよ。パーディドでこれなんだから、他の所に行くともっとひどいよ。コズミックのときなんか本番直前に姿を消してさ、本当に帰ったのかと思った」
「どこに行ってたの?」

 真夜は顔を上げた。青ざめているのかと思ったら、案外なんともない表情だった。

「店の裏で煙草吸ってたんだ」
「これだろ? 気にすることないよ」

 伶次はステージにむかっていった。
 自信にあふれたうしろ姿を見ながら、「チューニングしなくていいの?」と真夜に聞いた。

 先ほどまで意固地に座っていたのは何だったのかと思うほど、すっと立ち上がって、「だいじょうぶだよ、多分」と言った。

 アルトサックスをかまえて小さな音で、何やらラテン調の曲を吹き始める。

「何それ」
「熱帯ジャズ楽団の『ゲッタウェイ』だよ。これを吹きながら景気よく逃亡するんだ」

 葉月は拍子抜けしたあと、喉元のこわばりがほどけていることに気づいた。