夜闇の翼
その女は遊び女(あそびめ)なんかじゃない
お前さんを奈落へと引きずり込んでしまう物の怪だからね
耳に残るのは、しゃがれた声で話すお婆の言葉。
人をからかうかに近い表情で、人をくったかに近い口調で。
さも面白そうに語った。
私は吉野慧(よしの・けい)。
探偵を生業とし、小さいながらも事務所を構えている。
ここ数ヶ月のうちに起こった、行方不明事件。
何の因果かその調査依頼がうちの事務所へと転がり込んできた。
この手の事件は警察が扱うのが常だろうが、依頼人の女性は頑として譲らなかった。
「ですから……警察へ行かれるのが筋だと思いますよ」
「この『吉野探偵事務所』じゃなきゃ、ダメなんです!」
「……なぜ?」
「彼が行方不明になる日、時代錯誤な女が彼の近くにいたって……彼の友達が洩らしたんです。薄気味悪く笑う女で、この世の者とは思えなかった、って」
私は溜息をもらすと、依頼人に向き直った。
念を押す意味合いも含め、ゆっくりと口を開いた。
「どうしても、とおっしゃるなら受けましょう。ただし、これは『裏』の依頼だ。値段も『表』とは比較にならない。それでもいいんですね?」
「かまい、ません……お願いします、彼を捜してください!」
かような経緯で、この一件は私への依頼となった。
私の『裏』の依頼と――
依頼人の恋人が姿を消したと言われる場所は、歓楽街から少し離れた場所だった。
人と欲望の交差する歓楽街は、ひとつ路地をはずれると途端に寂しい雰囲気へと変わる。
薄暗い道、仄かに灯る明かり、すえた煙草の匂い。
どこか懐かしく、どこか嫌悪感を思い出させる。
「さて、そろそろ時間か……」
聞き込みで得たお婆の言葉。
この付近一角での行方不明事件は十中八九、人ならざるモノが関わっているだろう。
この街の古くは、今と変わらぬ享楽の街だったと聞く。
賭博、遊郭……欲望と狂気を生み出す街。
人の様々な思いが眠っていると言っても過言ではない。
ちらり、と腕時計に視線をはしらせれば、すでにいい時間だった。
宵闇の支配する時間。
人と妖の世界の境界があやふやになる時間。
しゅる、しゅる……
静寂を破ったのは、衣擦れの音。
長い衣服を引き摺り歩くような音だ。
私の前の方から見えるのは、ゆらゆらと微かに揺れる明かり。
ぼんやりとした明かりのそれは、どうやら燈篭のようだった。
「おや、にいさん。おひとりかい?」
からん、と下駄の高い音を立てて私の目の前に現れたのは、確かに女だった。
女の姿は時代錯誤もいいところだった。
左手に燈篭を、右手に着物の裾を申し訳程度に持っている。
着崩した着物は、ほとんど襦袢と言っていいだろう。
結い上げていただろう髪は、乱れが目立つ。
「一人だと、なにか都合が悪いのかい?」
「都合なんざ悪かないよ。ただお暇なら、あたしと遊んじゃくれないかねぇ?」
しなを作り、媚びたような声を出す。
その女から漂ってくる香りに、私は吐き気を覚えた。
いつまで経っても慣れる事のない、死の腐臭……
「そうだな……お前が気配を感じ取れたら考えよう」
「気配? 一体なんの……」
女の言葉は最後まで続かなかった。
夜闇を切り裂く、羽ばたきの音。
漆黒の闇と同化した『それ』は鋭い爪を以って女の顔に幾重にも傷をつけた。
「おいで、八咫(ヤタ)」
私が腕を天に伸ばすと、呼ばれた漆黒の鳥は静かに翼を収め腕を宿り木とした。
緋色の目、闇色の翼、そして三本の足。
神の遣いと言われる八咫烏は、今私の腕にいた。
「おのれ……ひどい事をしておいでだね、にいさん!」
「誘う遊び女にしては人を見る目がないな……」
ぱん、と音を立てて両手を合わせ、私は二の句を告げる。
「――私は女だよ。残念だったね」
同調するように八咫が一声鳴く。
『高天原に神留まり坐す皇親神漏岐神漏美の命以ちて
魂の日月の光を和らげ賜ふが如く
身心は天地の元気に通はしめ賜ふが如く
身は安く言は美はしく意は和らぎて諸々の悪業煩邪念猛慮をば
日向の小戸の檍原の下瀬の弱く和柔ぎたる潮の如く
罪と云ふ罪
咎と云ふ咎は在らじと
祓ひ賜ひ清め賜ふ事の由を
左男鹿の八つの耳を振り立てて聞こし食せと白す』
心を研ぎ澄まし、紡ぐは古い詞。
禍つモノを祓い、清浄を呼ぶ詞。
「お逝き……お前はもうひとりではないよ」
「おまえ……いいえ、あなたは……」
微かに笑むと、女は涙をこぼした。
End.
テーマ「サイレンス」
お題「視線」「気配」「宵闇」「時間」「仄明かり」「ひとり」
制限時間60分