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言えなかった一言

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『言えなかった一言』

 それは突然のことだった。
「美由紀です。お久しぶりです。お話したいことがあります」
 秋山正志は一瞬、美由紀とは誰か分からなかった。しかし、話しているうちに、三年前交通事故で亡くなった森村孝夫の妻の美由紀であることがあった。彼が生きている頃は、同期だということもあって、互いにちょくちょく行き来した。
 電話では言い難そうだったので、秋山は訪問して、会って聞くことにした。春も盛りの四月の終わりの頃である。

森村の家に近くの駅Xについたのは、昼を過ぎだていた。駅から歩いて十分ほどのところに森村家がある。緩やかな坂の中腹にあって、古くから家が並んでいるが、その中で森村の家はひときわしゃれた作りで目立つ。二階から、街を一望できるのが、孝夫の自慢だった。秋山が訪ねるのは、孝夫の葬儀以来のことであった。

チャイムを押すと、未亡人である美由紀が出迎えた。彼女は相変わらず美しい。まだ五十前でもあったことと、一度も子供を産んだこともないこともないせいか、美しいプロポーションを保ったままでいる。
 二人が結婚したのは、二十年前、孝夫が三十五歳、美由紀が二十五歳のときである。以来、オシドリ夫婦と言われるほど仲睦まじく暮してきた。それが、ちょうど三年前、交通事故で孝夫が亡くなってしまったのである。まだ五十五の若さだった。
 葬儀の時、美由紀が悲しみに暮れる姿は参列した多くの人の涙を誘った。秋山はその悲しみにくれた姿を今も忘れていない。

 仏壇に手を合わせた後、お茶をもらい、しばらく昔話で華を咲かせた。
 美由紀が「たった一言が言えなくて、悔しい思いを今もしています」と呟いた。
 秋山は美由紀の顔を見た。思わず抱きしめてあげたくなるような、何とも切ない顔をしている。
「きっと、その悔しさは死ぬまで引きずって生きないといけないと思います」と呟くと微笑んだ。
「変なことを言ってごめんなさいね。でも、誰かにずっと聞いてほしいと思っていました。その思いを胸に秘めたまま生きるのが息苦しくて……秋山さんに聞いてもらおうと思ったんです。良いですか?」
「僕で良ければ、かまいませんよ」
「主人が死ぬ前ですけど、つまらない話を信じてしまったの。夫が女の人と親しく歩いていたという友達の話を聞いて、浮気していると勘違いしてしまったの」
 それは不慮の事故で亡くなる半月前のことである。孝夫は神戸に出張した。偶然、美由紀の友達も神戸に遊びに行っていた。有名な異人館で若い娘を連れた孝夫と出会ったというのである。友達はそのことを美由紀に言おうか、それとも止めようか迷ったものの、結局は告げたという。それを聞いたとき、美由紀の頭の中は真っ白になった。しばらくして、胸が張り裂けそうなくらいの悲しみに襲われた。
「ずっと、彼のことを尊敬し信じていました。それなのに、友人が見かけたという一言で音を立てて崩れてしまった。その日を境に、寝室を別にして、口も気も利かなくなりました。夫は“どうした? 何があった?”と聞いてきたけど、何も答えませんでした。そして一週間後、些細のことで喧嘩になりました。私が悪かったけど、その時、夫が無性に憎たらしくて、それで出張のことを問いただしたら、“そんな下らない話を信じているのか?”と言って憮然とした顔をしました。その時はまだ浮気は本当だと思っていましたけど、一言、“ごめん”と謝ってくれたら、許そうという気持ちがありました。でも、主人の下らないという一言で私はきれてしまって、“実家に帰ります”と言ったら、“好きにしろ”と言い返され、実家に戻ってしまいました」
「実家に向かう電車の中で、本当に浮気したのかという疑念が起こりました。その不安は恐ろしく高まって、泣き出してしまいました。そして戻りたいという気持ちが高まったので、戻れませんでした。実家に帰っても、少し楽しくなかった。実家はすでに兄夫婦が継いでいて、表向き歓待はしてくれたけれど、自分の居場所がないことは良くわかりました。そして、事故の前の夜のことです。夫が浮気しているのではないかと教えてくれた友達が電話をくれた。神戸であったのは全く別の人だったと。私の旦那と別の知人と勘違いしてしまったと。言われてみれば、確かに友人を覚えているはずはなかった。なぜなら、夫と彼女が会ったのは、十年以上も前、ほんの一瞬、顔を合わせただけだから、覚えているはずはなかったのです。でも、電話の後、ほっとして泣きました。同時に夫にすまないことをしたという悔悟の気持ちでいっぱいになりました」
「その日の夜、月が冴え冴えと出ていて、風もとても強かった。まるで、天地が怒っているような、恐ろしい風の音がした。怖くて、子供のように震えていました。夫に“ごめんなさい”と一言が言いたくて、何度も夫に電話したけれど、出てくれなかった。翌朝も電話したけれど、やはり出てくれなかった。妙な胸騒ぎをして、急いで帰りました。帰りの電車の中で夫の同僚からの電話があって、夫が事故にあったことを告げられました。その時、頭の中が真っ白になりました。病院に無我夢中で駆けつけると夫は既に息を絶えていました。あれから随分と経つのに、まだ“ごめんなさい”の一言が言えなかったのが、いまだに心残りです。それがこの胸にナイフのように突き刺さっています」と美由紀は胸に手をやった。
「仕事は?」
「続けています。仕事をしていなかったら、きっと発狂していたと思います。……恥ずかしい話をして、申し訳ありません。でも、誰かに聞いてほしかったんです。なぜか、主人と親しかった秋山さんが良いと勝手に思いました」
 秋山は彼女の顔を見た。吐き出して、少し安堵しているのは分かったが、しかし、苦悩の色は隠せていなかった。彼女は自らを罰しながら生きていく覚悟なのだと思った。それが彼女の生きる支えにもなっているとも思った。
作品名:言えなかった一言 作家名:楡井英夫