今日から変わろう
西村は会社でも重要な地位にいる。しかし、最近経営陣と意見が食い違うことが多くなって煙たがれようになった。それでも仕事に対して自信もあったし自負もあったので、どんなに煙たがれように仕事にまい進した。ところが、数日前のことである。急に頭が痛くなり、病院に行った。検査を受けたところ、体のあちこちに動脈瘤があることが判明した。長年の喫煙と鯨飲それにストレスが原因ではないかと医者は言った。
「今までどおりの生き方はしたら早死にしますよ」と忠告された。
専務に病院での診察結果の話をしたら、
「これからは、もっと体を労わるように。そうだ、ちょうど、いいところにふさわしいポストが空いた。そこに行きたまえ。今度、ベテランを中心とした営業支援部を作ることにした。最前線で活躍する営業部隊の後方支援するところだ」
第一線を退き閑職につけという勧めだった。彼が躊躇していると、
「医者からも忠告されたんだろ? 君に変な死に方をされたら会社が困るんだよ」と冷たく言われた。
彼は沈黙するしかなかった。仕事をとったら何も残らない。西村は誰よりもそのことを知っていた。
「考えさせてください」
「十分考えたまえ。どうだ、一週間くらい休みをとったらどうだ。確か、リフレッシュ休暇があるだろ。それを使ってゆっくりと考えてみろ」と微笑んだ。
それは命令に近い口調だった。
数日後、西村は「後、どのくらい生きられますか?」と医者に唐突に聞いた。
仏頂面の医者は「そんな質問は簡単に答えられません」
「誰なら分かりますか?」となおも彼は食い下がった。
医師は困り果てた顔をして、真顔で「神様ならわかるかもしれません」と答えた。そばにいた若い看護婦がくすっと笑い、「先生はときどき冗談をいう癖があるんです」と弁解した。看護婦の笑顔を見て、西村も苦笑した。
「人生は時間ではないですよ。どう生きるかだと思いますよ。つまらぬことを考えるより、自分を労わり、大切の人を労わり、その一瞬、一瞬を大切にすることだと思いますよ」と医者は呟くように言った。分かりきったことを言われ、何か小馬鹿にされたような気分になった。
専務の勧めにしたがいリフレッシュ休暇を取ったが、病院以外行く場所が無かった。家にも居場所が無かった。
黙ってテレビを観ているだけで、妻から「あなたがずっと家にいると気が狂いそうになる」と言われた。また、妻や娘に話しかけたりすれば、それだけで嫌な顔をされた。つまり家の中では、どこにも居場所がなかったのである。いつしか、家を早く出て、そしてぼんやりと川岸の公園にあるベンチで過ごすようになったのである。
リフレッシュ休暇をとって三日もそうだった。朝から川辺に行き、ベンチを座る。川尾を眺めて過ごす。昼になると近くのコンビニでパンを買って食べる。そしてまた川を眺める。そして夕方――。
風もなく穏やかである。沈もうとしていた夕日が、町も、町の中央に流れる川も、何もかも赤く染めている。
西村は相変わらず川面を見ていている。時折、行き交う小型の船が川面を乱す程度で、鏡面のように赤く輝いている。だが、いっさい目に入っていない。
いつものようにあれこれと考えているのだ。これからどうしていいのかと。本当は誰かに相談したかった。だが、どこにも相談できる人がいない。のみならず、心配さえくれる人もいない。本来なら心配してくれるはず妻や娘でさえしない。心配どころか、妻にとって夫は現金を引き下ろすATM機と何ら変わりない。二十歳になる一人娘は小遣いをせびるときだけ会話をするが、それ以外目を合わせることすらない。妻と娘はしょっちゅう会話しているが、彼はその輪に外にいる。食事だって、夜遅く帰ってくる彼はほとんど独りで食事をした。
何のために生きてきたのか。これからどう生きればいいのか。そして最後は自分の生き方を振り返った。……いつの頃か、彼は仕事が生きがいになっていた。仕事をすることによって、会社と家庭を支えてきたと自負していた。けれど、支えてきたのは、仕事にしがみついていた自分一人だけだったことに気づいた。他の誰もさほど当てにはしていなかった。家族でさえ。彼は急に深い孤独感に襲われた。みんなの輪の中にいるはずなのに、独りぼっちということに気づいた。
夕日が消えたかと思ったら、すぐに宵闇があたりを支配した。見上げると、もう月と星が輝いている。彼はくしゃみをした。すっかり冷え込んできたのである。
家に戻った。
妻と娘が楽しそうに食事をしていた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「早く帰ると迷惑か?」と歯に衣を着せぬものの言い方をした。妻が一瞬、強張った顔をした。
ふと、部下の女性が「部長はいい男だけど、笑わないですよね。いまどき、そんな男はもてませんよ」と言ったことを思い出した。そのときは「もてなくて結構」と答えたが。
妻はいつしか笑わない夫とずっと寄り添ってきた。労わりの言葉すら、かけることを忘れていた。
「これからは早く帰ることが多くなる」と微笑みながら言った。
きっと不器用な微笑であろうとすぐに後悔したが、
「そうなの」と妻は事務的に答えた。
再び病院に訪れたときのことである。看護婦に近寄ってきた。
「この前、先生が変なことを言ったでしょ。きっと気分を害したと思うけど、先生は一年前に奥さんをくも膜下出血で亡くしたんです。先生は死に水をとってやることさえできなくて悔やんでいました。仕事をしていたんです。一人娘からも、そのことでずっと非難されてきたらしいけど、最近、和解したと言っていました。先生は多くの患者に同じことを言っています。残された時間は神様のプレゼントだと。少なくとも、死の一歩手前で生きることや死ぬことを考えることができると。うちの父も倒れるように死にました。西村さんを見ていたら、仕事にずっと没頭していた父の姿が重なってしまって……ごめんなさい、変なことを言って」
彼の心が熱くなった。自分とそんなに関わりのない看護婦がこんなにも自分のことを考えてくれていたことに。
病院から出ていろいろ考えた。
仕事の現場では「何事も一歩前に出る勇気が必要だ。変ることより変わらないことのリスクが大きい」と彼は口癖のように言っていたし、同時に自ら常に変わることを心掛けていた。だが、私生活では、一切、顧みることはなかった。本当は私生活の方がはるかに重要だったのに気づいた。会社中心から家庭に中心に自分を変えようと思ったとき、目の前に花屋とケーキ屋があった。妻と娘のために花とケーキを買うと思った。それで変わるとは思わなかったが、少なくとも一歩踏み出せると思った。