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もう一度チャンスをください

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『もう一度チャンスをください』

さゆりは日本有数のN商社に入社して十五年が経つ。誰よりも一所懸命にやってという自負があった。また、自負をふさわしい成果をあげてきた。ところが、たった一度だけ、手抜きとしか思えないようなミスをおかしてしまった。その原因は、娘のことであれこれ悩んでいるうちに、これから立ち上げようとする事業に関する調査・分析する時間がなくなってしまったのである。その結果、顧客との会議の場で、しどろもどろの対応となってしまった。直属の上司である山下部長がうまくフォローしたから、かろうじて何事もないように会議は終わることができたが、決して許されるミスではなかった。

山下部長はさゆりに目をかけていた。ただ単に一生懸命でやるだけではない。どんなときでも冷静で、そして何よりも手抜きをしなかったからだ。それが今回明らかに違っていた。本人はうまくとりつくろうとしたが、事前の調査をろくにせず、場当たり的な発言をしてしまったのだ。
山下部長は会議後、さゆりを呼び出しだ。
 時間をかけて打ち合わせをするときは必ずといっていいほど、長椅子に座るように言うのだが、今回は座れと言わなかった。それは簡単に済ませようという山下部長の意思の表れだった。
「今日の失態はどういうことだ。何かあったのか?」と問いかけた。
「私のミスです。準備不足です」
娘のことで頭を悩まし、結果的に仕事がおろそかになってしまったのだが、そういったプライベートな事情を口にしたくなかった(そんな言い訳がそもそも通ると思っていなかった)。いろんな言い訳がさゆりの脳裏を駆け巡ったたが、うまくまとまらない。下手な言い訳は逆にみっともないし、したところで受け入れられるはずもない。そう考えるに至り、弁明することを諦めた。
「そうか」と山下部長は呟いた。
背を向けて、オフィスの外に顔を向けた。その先には春の霞がかった空があった。さゆりも、その空を見た。とても青い空だった。直ぐに部長は元の体勢になった。真顔だった。一瞬でも空を見ていなかったと、さゆりは思った。
「もう一度聞く、何か言い訳はないのか?」と聞いた。
たった一度のミスをも見逃さいのが山下部長だった。ビジネスライクにものごとを進める。だめと分かったらスパッと切り捨てる。そういった鋭いところに、さゆりは憧れでいた。
「いえ、別に何でもありません」
「そうか、用はもう済んだ。もう二度と、ここへ来なくてもいい」と静かに告げる。
今回の重要プロジェクトから外すと言っている。暗に会社を辞めたければ辞めろとも言っている。さゆりは冷たいとか理不尽だとかは思わなかった。むしろ温情をかけてくれているとさえ思った。「会社を辞めろ」と明確に言われていないからだ。失敗して「辞めろ」とはっきりと言われ去った人間は数知れない。彼はいたずらに言う人ではない。会社や本人のことを思ってはっきりと言うのだ。
「分かりました」とさゆりはその場を辞した。

十年間である。さゆりは他の男の何倍も会社に尽くした。それゆえ山下部長は異例のスピードでさゆりをプロジェクトのリーダーに大抜擢した。うまくいったら、これも異例の早さで課長になる予定だった。しかし、その望みは今回の失態で絶たれた。

 五年前、夫と離婚した。その際、夫は娘を連れ、郷里の富山に帰った。義理の父が突然倒れたためである。夫は離婚するか、それとも一緒についてくるかを迫った。既に二人の間はぎくしゃくしていた。それに仕事を捨てる気もなかったので、さゆりは離婚を選択した。そして娘についても、「吉村家の大事な跡取り娘だ。俺が大事に育てる」と言われたため、泣く泣く手放した。
それが、一か月前、突然、娘から「進学のことで相談したいことがある」と電話があったのである。もう二年近くも顔を見ていない。忘れかけていた矢先だった。しかし、電話に出た途端、とても愛おしい気持ちが抑えきれなくなってしまった。それ以来、何気ない拍子に娘のことをあれこれと考えてしまうようになり、仕事に集中できなくなってしまったのだ。何度か、電話でやり取りをした。
顧客との会議の前日、電話の最後に娘が「どうせ捨てた私のことを気になんかしていないでしょ」と捨てぜりふを吐いた。その言葉が刃のように胸に突き刺さって抜けない。夫に託したとき、嫌われたり憎まれたりする覚悟はできていたはずなのに。

さゆりはしばらく会社を休んだ。会社を辞める気はなかったが、どうしたらよいか分からなかったので休んで考えることにしたのである。
一週間後、会社に復帰した。が、与えられた仕事は、誰にもできる仕事だった。
このままでは終わりたくないと思い、娘への思い、それらが複雑にからみあい、さゆりの心を惑わした。傍から見ると、何か魂が抜けたような顔をしているのを、さゆりは気づかなかった。

夏になろうとしたときのことだ。
突然、娘からメールが着たので、直ぐに読んだ。メールには、父親から別れた理由を聞いたことが書かれていた。また、勉強や友達との関係で悩んでいることも書かれていた。最後に、「今でもお母さんのことが大好きです。お母さんの温かい手を今も覚えているよ。苦しいとき、『 どんなに苦しくても前に向かって歩け』と言ったお母さんの言葉を思い出します。いつか私もお母さんのように東京で働きたい」と書いてあった。
さゆりははっと気づいた。幼くてまだ子供と思っていた娘に教えられたのだ。くよくよしても前に進まなければ何も始まらないということを。考えてみれば、娘はもう十七歳だった。大人になろうとしている頃なのだ。
メールを読んでさゆりは変わった。いや変わろうと思った。変わらなければ、最愛の娘に顔向けできないと思った。

山下部長のところに行った。呼ばれたわけではない。さゆりは失敗の言い訳はしなかった。ただ一言、「もう一度、チャンスをください」と懇願した。
山下部長は静かに言った。
「穏やかな顔になった。どうやら失敗を吹っ切れたようだな」と微笑んだ。