おばあちゃんの手紙
やさしかったおばあちゃん。時にはきびしくしかってくれたおばあちゃん。いつもあたたかい目でみまもってくれていたおばあちゃん。
いつかおなかをこわした時にはあたたかな、やわらかい手でおなかをゆっくりさすってくれました。痛みがやわらいでいっていい気持ちになり眠りについたこともありました。
いつかお母さんに口ごたえをした時にはこわい目でにらみつけられ、しかられました。そして自分が悪かったことをわからせてくれました。困ったことがあると、かならず声をかけてくれて、いろいろなことをおしえてくれました。つらいことや悲しいことがあった時には、いつもはげまし元気づけてくれました。
マリちゃんにとっておばあちゃんは、ぜったいになくてはならない人でした。
そのおばあちゃんが死んでしまうなんてどうしても理解できませんでした。さいごの時にはマリちゃんの手をにぎり、やさしさいっぱいの顔で「しんぱいしなくてもいいのよ」とでもいうように、ゆっくりうなづくと静かに息をひきとりました。
その後は教会でのお通夜とか、葬儀とかで大人たちがいそがしく動きまわっている中でマリちゃんはどうしようもない気持ちのまま、ただいわれるとおりにしていました。
一週間があっというまに過ぎ、やっとあわただしさがおさまったころにお母さんが「マリにおばあちゃんからの手紙があるのよ」といって「マリへ」と書かれた封筒を見せてくれました。そして封をひらき中の手紙を取り出し、ゆっくりと読んでくれたのです。
「この手紙が読まれる時には、もう私はこの世には、いないのよね。とても悲しく、さびしいことですが私たちには、どうしようもないことで、そのまま受け入れるしかありません。きっとマリは、つらい思いをし、悲しむことでしょう。その気持ちは、痛いほどわかりますが、でもそこには、たいせつな、意味があることを知らせたくてこの手紙を書くことにしました。
死によって私たちのからだは、なくなり土にかえります。これはだれの目にも見える、たしかな事実です。でも、それで、その人は、まったく、いなくなってしまうのでしょうか。このことについては、昔から正反対の二つの考えがあり、どちらが正しいかで、たがいにあらそっています。しかし、これは人間には知りえない謎で、だれにでも分かるような答えはないというのが本当ではないでしょうか。多くの立派な方たちがいろいろな教えをといていますが、それらに耳をかたむけ、参考にしながら自分で自分なりの答えをみちびきだすしか方法はないと私は考えます。その答しだいでその人の生きていく道は、まったく別なものになってしまうのですから。
私の場合はいろいろ悩み、苦しんだすえにたどりついたのがキリスト教でした。イエスさまの教えは感動的で生きることの意味や死の問題について、はっきりと答をしめしてくれました。私たちは、たがいにたすけあい、ささえあうことによって、しあわせになれること。私たちはそのために生活し生きているのだということ。死は本当の命を得るために通らなければならない門のようなもので暗くてよく見えないのでこわいもの、きみの悪いものに思われますがけっして、そのようなものでないこと。死によって私たちは、きえてなくなってしまうのではなく本当のいのちを得て生きつづけるのだということを知らされたのです。
マリ、おばあちゃんは死んで、からだはなくなっても生きていることを信じてね。
もう顔をあわせて話すことはできないけれどこころをとおして話すことはできるのよ。
こまった時、つらい時、悲しい時など、必要な時には、こころの中でおばあちゃんに呼びかけてね。おばあちゃんはマリといっしょに感じたり考えたりしながら、いい答が見つかるように手助けしたいと、いつも思っています。マリと過ごした毎日は、幸せそのものでした。あなたの明るい笑顔は、いつもこころのいやしでした。すなおでいい子に育っていく姿は、楽しみであり大きな喜びでした。あなたは、おばあちゃんにとって、たいせつな、かけがえのない孫です。これからもいっしょに笑ったり、悲しんだり、がまんしたりしながら、しっかり、前を見て生きていきましょうね」
マリちゃんにはお母さんの声が、おばあちゃんの声のように聞こえました。それまで、むねの中に、暗くたちこめていた、もやもやしたものが、きえていき、明るい気持ちになり、元気がでてきました。そして、こころの中で「おばあちゃん、ありがとう。もう、悲しむことは、やめて元気でがんばるからね」といいました。