恐怖の形
「いつくるのか」
「いつきてもおかしくないはずだ」
そんな高ぶった気持ちのまま、仮設住宅の寝台に横たわっている午前三時。
本当は眠り込んでいて、恐ろしい夢に背筋がぞくぞくして目覚め、警戒警報発令直後だと思い出したのだった。
それは本当に恐ろしい夢だった。その恐ろしさとは、はっきりと思い出しさえすれば消えてしまうようなものでも、曖昧な細部に紛れこませてしまえるようなものでもなかった。
腰窓の高さにマットレスの上端を揃えているので、寝返りを打ち間違えると外へ転がり落ちる危険がある。だが、ここから見える風景は、家族達と暮らしていた家から見ていた風景に酷似していて、落下の恐怖よりも、懐かしさが勝っていた。
夏の夕方、広縁に寝転んで見た回遊庭園の景色であり、小学校の時の友人宅の屋根裏部屋から盗み見た、プールのある風景でもある。
私は午前三時に、天井の巨大な×印から垂れ下がる洗濯物のうすぼんやりとした輪郭から目を逸らすこともできぬまま、先ほどまで見ていた風景の何処に、恐怖の要素があっただろうかと、考え始めていた。
最も鮮やかに覚えているのは、布団の中に現れた赤と白、二つの三面鏡だ。ごつごつとした漆の古びたやつと、婚礼家具だと一目でわかるロココ調のやつだ。
旧家へ嫁ぐ花嫁があって、婚礼家具は届いた。だが花嫁は、着かなかった。
漆の鏡台が似合う屋敷にはそぐわない家具だけが先着して、主を待っている。
花嫁は、途中で迷ってしまったのだろう、夫となる男を一目も見ぬうちに。それがあまり唐突だったので、花嫁は相変わらず夫を求め、旧家を恨んでさまよい出てくるらしい。
「この白い三面鏡。私の三面鏡が何よりの証拠。あなたがそう。やっと見つけた」
そうやって首に回される白い腕。湿って重たくなった文金高島田。
その重みはおそらく、頭から被った布団の重みだ。だが、あの腕は? この首の引っかき傷をどう説明すればいいのだろう。
私のわき腹は、マットレスに半ば埋没した三面鏡の角に押し付けられ、そして首にはみみず腫れが出来ていた。その傷がこう言っている。
「あなたは、誰? あなたは、誰?」
わたしは冷や汗をかいていた。
「ばれた」
そう思ったのだ。
しかし、何がばれたのだ。わたしが本当の花婿ではないという事か? それとも、本当の花婿だということが、だったろうか?
いづれにせよ、漆の赤い三面鏡を、腹の内に隠匿し続けた私の心は、偽りだらけだったのに違いなかった。
目覚めたとき、私はいつものベッドに寝ていた。鏡台も、首の傷も無かったし、警戒警報も発令されていなかった。すると私は、夢の中で夢にうなされ、夢を恐れて眠れない夢を見ていた、とでもいうのだろうか?
窓のすぐ脇に、小学校時代の同級生達がぎっしりと詰まったワンボックスカーが停車していた。
「私は、誘われていない」
私は、悔しいような、ほっとしたような気持ちで同級生達を見た。同級生達は笑いあっていた。しかし、誰も私の姿を見ようとしない。夜だった。そう、その車内は薄暗く、車内灯のオレンジに照らし出されていた。庭を流れる小川にかかる橋の周囲は、確かに夏の昼間の陽光が降り注いでいるというのに。そして、私の頭の上にある東向きの窓からは、朝日が昇りつつあるというのに。これも同じ夢だったのかもしれない。
「三班と五班は高台へ! 一斑と四班は上之山!」
号令じみた声が聞こえて、スライドドアが閉ざされた。
「彼らは何処へいくんだろう。私はここに居ていいんだろうか」
走り去った車のあった風景の一部が、ワンボックスカーの形に黒く抜けていた。するとこれも夢だったのだろう。
「夢落ちか。今更」
はき捨てるようにそう結論したのは、その日の夕方、仕事が一段落したときだ。
雨が降っていた。下らない夢に翻弄された労働者は、眠気との不断の戦いに疲れていた。
「眠ったら死ぬぞ」そう叱咤しながら仕事をした。それでも、社外秘扱い文書に自分の有給計算を判別不能な字で書き込んでしまうといった失敗を幾度も繰り返していた。
本当は、何の恐怖も無かったのだ。上司の嫌味な目つきも、後輩の挑むような質問も、私の奥深いところまでは達しなかった。鏡面のように静かに、私は1日を過ごした。時折、激しい動悸に襲われたが、固く眼を閉じていれば過ぎ去った。
「あの恐怖は本当だったのだな。みんな本当だったのだな」
改めてそう納得したのは、帰宅時に、電気のついていない自宅の玄関を開けたと思った瞬間のことだった。