二つの傷
ベッドの上で、うつ伏せになりながら奈々は一郎に顔だけ向けて聞いてみた。
一郎は、タバコを吸っている。
煙を噴出して
「さあ」
と、気のない返事をする。
「あたしさ、時々、あたしの前世ってなんだったのかなーって思うことがあるんだ」
「ふぅん」
「ヨーロッパのさ、お姫様とかだったら、すごくいいなー。なんて。ふふ」
一郎は相変わらずタバコを吸っている。
「一郎さんは、自分の前世、なんだったと思う?」
「さあ…なんだっていいさ」
「何それ。全然夢がないのね」
「今の時代で、こうやってお前とめぐり合ったんだ。それで良いよ」
笑顔を奈々に向けた。
奈々と一郎はバイト先で知り合った。
一郎は、オーナーが海外、特にヨーロッパから仕入れてくる雑貨を売る、小さなお店の雇われ店長だった。
オーナーの目が良いのか、商品の質はよく、小さいお店とはいえ、かなり繁盛していた。
奈々は、そういう海外の雑貨が大好きで、よくこのお店に買い物に来ていた。
一郎一人では忙しくなりすぎてきたので、常連の奈々に、バイトをしてみないかと誘ってみたのだ。
インテリアデザインにも興味のあった奈々が、お店のレイアウトも少しずつ手直ししたら、さらに顧客が増えてきた。
いつもかわいい笑顔で、客に対応している。
閉店後、何度か一郎が奈々を送っている間に、二人はいつしか体を重ねる関係になっていた。
奈々は、情事の後、一郎の胸にある傷跡に触るのが好きだった。
「子供の頃の怪我のあとだってさ。どんな怪我したんだろうな。俺は覚えてないんだよ」
「私もあるのよ、そんな感じの傷。ほら」
と、首元に薄く残る傷跡を見せる。
「どうしたんだ?」
「子供のころ、チャンバラごっこやってて、近所の腕白坊主に木の枝で突かれたんだって、お母さんが言ってた。
体が火照ったりすると、うっすら浮かんでくるの。ふふ」
「俺がもっと火照らせてやるよ…」
一郎が、奈々の首もとの傷に口付けを落とした。
ヨーロッパにすごく興味のある奈々は、いつかバックパッカーとしてヨーロッパ旅行をしてみたいとよく言っている。
「一郎さんも、一緒に来てくれる?」
そう、奈々は聞いてくる。
「考えておくよ」
そう、一郎は答える。
ある日奈々がお店にでると、事務所に一郎と一緒に、見知らぬ女性がいた。
「あら、あなたが奈々ちゃんね?」
きれいなさらさらの黒髪。
都会的美人というのだろうか。
奈々にはとてもまねできない色香が、その女性にはあった。
「あ、奈々、紹介する。俺の婚約者の優衣だ」
奈々の顔に驚きの表情が浮かんだ。
「こ、婚約者…?」
「うん、今までスイスのフィニッシング・スクールに行っていたんだ。
ついでに言えば、このお店のオーナーでもあるんだけどね」
「今まで、いろいろと一郎さんがお世話になったみたいで。どうもありがとう」
私は…ただ、彼女の代わりにしか過ぎなかったんだ…。
奈々は、自分の中の何かが崩れていくのを感じていた。
奈々はそれから、バイトを無断欠勤するようになった。
一郎が心配して携帯に電話しても、電話番号を変えたのか、既につながらなくなっていた。
アパートはもう引き払っていた。
奈々が姿を消してから約1週間。
一郎が、仕事を終えて自宅のマンションに帰ってくると、入り口に奈々が立っていた。
「奈々…!」
思わず駆け寄る一郎。抱きしめようと腕を広げたが、奈々が一歩下がってしまったため、それはかなわなかった。
「…奈々、悪かった。本当にすまなかった…」
無表情のまま、奈々は一郎を見つめていた。
「あ…コーヒーでも飲んでいくか?」
「あの人は…」
一郎の婚約者、優衣のことだろう。
「あ、ああ、今また海外に行ってて、雑貨の仕入れをしているところだ」
「…だから、体がさびしいから、私をまた抱きたいの?」
「そ、そうじゃない。今日は本当にただ、話がしたいだけだ。お前だって、俺に言いたいこと、山ほどあるんじゃないのか?」
そういって、一郎は奈々の腕を掴んでマンションの玄関を入っていった。
奈々をソファーに座らせて、コーヒーを淹れに一郎はキッチンに立った。
「ずっと謝りたいと思っていた。本当だ。遊んだわけじゃない。本当に好きだったんだ、奈々のこと」
コーヒーメーカーから落ちる茶色の液体を眺めながら、一郎は言う。
「…一郎さん、前に私が言った話、覚えてる?」
「え?」
「生まれ変わりの話…」
「あ、ああ。ハハ、ヨーロッパのお姫さまだったらよかったなーとかいうやつだろ?」
気がついたら、すぐ横に奈々が立っていたので、一郎はぎょっとした。
「…あなたの胸の傷…」
一郎のシャツの上から、傷のあるあたりを指先ですっ…と撫でる。
「…私がつけたの…前世で」
ボコボコッと、コーヒーメーカーが最後の音を立てる。
「残念だな…覚えてないなんて。私とお兄ちゃん、前世ヨーロッパの田舎で兄妹として生きて、そして愛し合っていたのよ」
「お、お兄ちゃん…?」
一郎の声がかすれる。
「そう。一郎さん、私のお兄ちゃんだったの」
一郎がそろそろと後ずさる。奈々は距離感を詰めるように一郎に迫る。
後ろは壁だ。横には冷蔵庫。反対側はシンク。逃げ場所がない。もう後がない。
「私が結婚することになって…嫌だってお兄ちゃんの胸で泣き叫んだら」
『次の世で、一緒になろう』
そう言って、二つの銀の短刀を取り出した。
ひとつは兄が愛する妹の命を奪うもの。もうひとつは妹が愛する兄の命を奪うもの。
二人で抱き合うようにして、お互いの体に短刀を突きつけた。
奈々の目が愛しく一郎を見つめる。
右手に光っているのは…銀のナイフ。
奈々のナイフが、一郎の胸にある傷と寸分違わない場所を突いた。
深く、深く。
「な、奈々…なんで…」
信じられないといった目で奈々をを見つめていた目が焦点を失った。
唇からも血の気が引いていく。
奈々は、色を失った一郎の唇にそっと口づけをした。
「今度こそ、生まれ変わったら、私だけを愛してちょうだいね…おにいちゃん」
そう一郎の耳元で囁くと、奈々は一郎の心臓に刺さっている銀のナイフを抜き、今度は自分の喉元にある傷につきたてた。