二人の失恋物語
翔子は友達の亜里沙の電話をして、いきなり「これから飲もう」と誘った。
「あまりに急な話ね」と亜里沙は呆れた。
「いいじゃない。どうせ暇でしょ?」
「前も言ったと思うけど、土曜日は溜まった洗濯物と掃除で一日が潰れるって」
「もう五時よ。片付いたでしょ?」
「確かに片付いたわ」
「やっぱり。そうだと思った。一時間後、待ち合わせしよう。良いでしょ? 今夜はとことん飲みたいのよ」
「あなたって、いつも強引ね。どうせ、また男に振られたんでしょ」
翔子と亜里沙は大学に入ってから友達になった。もう十年経つ。そんなに深い関係ではないが、それでも互いに悩みは打ち明けられる。
今夜の場所は高層ビルのホテルに十九階にあるラウンジだ。
静かな音楽が流れている。眼下に広がる夜景は美しい。醜いものを宵闇が消し去り、偽りに満ちた光が夜の世界を作る。それは夜だけのフィクションで昼になれば覚める夢である。
翔子は先に来て酒を飲んだ。亜里沙が来たときにはかなり出来上がっていた。亜里沙があれこれと世間話をするが、翔子はあまり返答しない。酒の飲むと、翔子は口が妙に重くなるのだ。
「恋人と別れたの? 結婚するという話もあったけど」
亜里沙は聞きづらいことでもずけずけと聞く。
「三時間ほど前、その彼に別れを告げられてしまいました」と翔子は笑った。翔子は泣いてはいない。泣いたという痕跡もない。
翔子は自分から話した。
「たかが、一つの恋が終わったらといって、もう泣けないわよ。だって、私はもう三十二よ。恋の甘いも酸っぱいも十分知り尽くしている。今さら十六、七の乙女のように恋が終わったからといって泣けないわよ。人生には、別れと出会いは付き物でしょ」
「強くなったね。私には無理。あなたと出会って十年が経つ。あれから、いったいどれほどの恋を経験したのかしら?」と亜里沙は意味ありげに視線を向けたが、翔子は無視した。
翔子が気の強い女に見えるのは、上辺だけのことを亜里沙は知っている。同時に本当は誰よりも繊細で傷つきやすい女でもあることも。だが、そう見えないようにしているのは、それは欺くためではなく、独りで生きていくためだということもよく知っている。
「東京って、不思議な街ね。知らない人がうごめいて暮している。なぜ、こんなにも人が集まるのかしら?」と亜里沙が言った。
「そうね。東京でしか生きられない人がこの街に集まるのだと思う。私のように」
亜里沙は東京に来る前の翔子のことを知らない。知ろうともしなかった。もし聞いて欲しいなら、自分から言うだろうし、言わないのは、逆に聞いて欲しくないからだと思っていた。
「私は故郷に思い出を捨ててきた。今さら、もう過去にすがろうと思わない。これから十年、二十年、死ぬまで帰らないかもしれない。良い思い出だけの故郷であってほしい。でも、それは私の心の中にしかない」
「いつか帰るの?」
「たぶん」と翔子は微笑んだ。
「私は東京で生まれ、東京で育ち、そして、たぶん東京で死ぬ。生まれたところも、育ったところも、みんな建て替えられ、今はない。東京はそういうところよ。きっと死んだら、私が生きていたという記録は儚く消えてしまう。ねえ、本当に失恋したの?」
「嬉しそうに聞かないでよ」
「他人の不幸は蜜の味というでしょ」
翔子は亜里沙をにらんだ。
「冗談よ。じゃ先に私から失恋を告白する。一年も前、バレンタインディにチョコを渡し、恋心を告白した。長身のいい男よ。そしたら、彼は何と言ったと思う。半日かけて、悪戦苦闘して作ったチョコをいらないと言ったのよ。一年間も付き合っていたのに。別れ際に言われた。“君は強い女だから独りでも生きられる。俺は君のような強い女は苦手だ”と。だったら最初からそう言って欲しかった。作ったチョコレート、川に投げ捨てた。そしたら、子供に見られていて、“川を汚しちゃだめだよ”と言われた」と亜里沙は笑った。
「そうなの。私を何度も抱いたのに、他に好きな女ができたから別れようと簡単に言った。私よりも十歳も年下だと言っていた。若くて、私よりずっと綺麗だと言ったから、彼の頬を叩いてやった。それで五年の恋は終わり。あっけなく終わった」と翔子は告白した。
二人とも溜息をついた。そして沈黙した。まだ長い夜が始まったばかりである。