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新訳アリとキリギリス~もし世界が秋で終わってしまったら~

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ふと、今まで一色に包まれていた意思が、どこかで違う意思が少し混じるのを、キリギリスは感じた。見ると、ステージ横にコオロギがボロボロの姿で立っているのに気づいた。

ちょうど間奏の部分で、コオロギが足取りの悪い状態のまま近づいてきて、そっとキリギリスに耳打ちした。
「…この、こ、こんさ、コンサートを、すこ、しでもなが、く、するために…」

途切れ途切れではあるが、コオロギは続けた。三曲目辺りから若いアリが洪水に気づいたこと。若いアリが先頭に立って他の昆虫を引き連れて、落ちていた木材から即席の防波堤を作り出したこと。その防波堤も壊れ、すぐそこまで洪水が迫っていること。

「キリギリスには言うな、って、言われて、いたんですけど、僕が伝えたくて」
キリギリスは目をつむりながらも、手に持った楽器の演奏は止めず、コオロギに聞いた。「あいつは—」コオロギは首を横に振った。
「最初に」
そうか、とキリギリスが呟くと、コオロギは顔を上げた。
「でも、伝えてくれ、と頼まれた一言があります」
「何だ」
「楽しかった、と」
 キリギリスは強く目をつむり、持っていたギターを強くかき鳴らした。

「わかった。ありがとう。君も、最期まで楽しんでくれ」
「はい」

コオロギがステージを降り、少し間奏が長引いている様子に少し戸惑い気味だった会場が、再び始まった音楽に安堵して、元通り騒ぎ始めた。

六曲目は終わり七曲目にすぐ移行した。七曲目も相変わらず激しい曲だった。その為、最初は数匹しか事態に気づかなかった。押し寄せる水は、まず入り口から一気に押し寄せた。入り口から入った洪水は、何匹かを飲み込むと、引き潮のように一度外まで出ていく。その次は満ち潮のように、また会場内へ侵入してくる。まるで砂山のトンネルを作る手のように、会場内の三分の一ほどの昆虫を外へと掻き出してしまった。
軽く悲鳴を上げる者、瞬間的に無言で飲まれる者、最期の瞬間まで歌詞を叫び続ける者。
最期の瞬間は様々だったが、後ろが気になり涙を流しながらも、自ら会場から出ようとする者は一匹もいなかった。まるで最期にはここにいることが最初から決まりきった事のように。

キリギリスも終わらせる気はなかった。七曲目を歌いながら、彼はこの曲が歌えている事に感謝していた。紛れもなく、若いアリが稼いでくれた時間があるからこそ、キリギリスはここまで歌えているのだ。若いアリの為に。彼の行為に応える為に。

アリへの感謝と謝罪の気持ちが、目の前に迫り来る洪水のように、交互に波打った。

会場にいる昆虫は、残り半分も居なくなっていた。観客である彼らは、後ろからくる洪水が見えない為、振り返らない限り、ほとんど恐怖を感じることなく流されて行くが、ステージのキリギリスだけは違う。どのくらいの速さで水が来るか、飲まれる瞬間がいつか、観客の残りはどのくらいか。その全てが見えていた。なので、彼の脚は膝から震えていたが、それを最前列に感じさせないように、身体を左右に振ったり、リズムに乗せて足でステップを踏んだ。声もほとんど掠れていたが、誰も気にしなかった。徐々に洪水はキリギリスに向かって来ており、とうとう最前列を残すまでになった。

「コオロギぃ、みんなっ」掠れ声でキリギリスは叫んだ。
そして彼は、自分が涙を流していることに、そこで初めて気づいた。
「ありが、とう!」
気付けば、最前列の皆も涙していた。ただ、一様に笑顔でもあった。泣き笑いの状態で、皆が手を振って、キリギリスの礼に応えた。
「たのしかっ」彼らの言葉を最後まで聞けないまま、キリギリスだけが残った。
自分の声だけが響く中、あと数秒で、自分も水に飲まれる。そう分かっていてもキリギリスは、歌っていた。水の音が聞こえないように、ギターをひたすらかき鳴らした。枯れていた声も、出来るだけ大きく出した。キリギリスは、洪水がいつ来てもいいように、目を瞑った。

やがて、洪水はステージの上に乗り上げ、キリギリスをギターごと攫っていった。





あれから一週間が経過していた。

荒野の水は引いていて、至る所に水たまりが出来たままだ。もちろん、コンサート会場は水浸しだった。
キリギリスが必死に作っていた葉の壁は、ほとんど形を保っていなかった。

そこに複数の影が近づいていた。
影の一つが、元ステージの近くに来ると、そこには水滴で輝くギターがあった。

影はそのギターを大切そうに抱き、ゆっくりとその場から離れ、
他の影たちのもとに帰って行った。