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春の夜

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『春の夜』

「夜桜見物に行きたい。一生のお願いよ」とユミにタカシはせがまれた。ユミは愛欲をそそるようないい女である。
タカシは随分と大げさな言い方だなと思いながらも、そこまで言うのならば、と夜桜見物に一緒に行くことにした。

穏やかな春の夜だった。食事の後、二人ともほろ酔い気分で近くの公園を散策する。満開の桜が出迎えた。

タカシはユミが好意を寄せていることが分かった。けれど、わざと気づかないふりをしている。愛というものに素直になるには、いささか歳をとり過ぎていたからである。四十五歳になった彼はそう思っている。それに育った環境が違いすぎる。住んでいる世界も違う。何一つ共通するものがない。そんな二人が恋仲に陥ったところでうまくいくはずはない。恋の道を歩む前から、タカシはそう結論づけていた。彼は石橋を叩いてみて、確実に渡れると思えなかったら、決して渡らない性格なのである。

ユミにとってタカシは憧れていた男性だった。父のように優しく知性的でユーモアがあった。接する度に魅かれていった。何度かそれとなく自分の切ない胸のうちを明かしたものの、それがうまく伝わらなかった。伝わらないのは、既に彼の心に別の女が棲みついているからだと勝手に解釈した。それなら無理に追いかけない。追いかけたところで惨めになると思っていたから。けれど、彼への思いは止まらない。愛は理性で縛ることはできないである。

「満月だな」とタカシは足をとめた。
 目の前に満開の桜が扇を描き、その上に金色の月が地上を照らしている。
 ユミは、「きれい」と呟いた。
タカシはその一言に驚きあらためて桜を眺めた。確かに美しい。同時にホステスをやっている彼女に美を見る眼が備わっていることに、何の根拠もなしに意外だと思った。
「きれいか……」とタカシも呟くと、
「ええ、きれいです。前に教えてくれました。圧倒的に美しいものの前では沈黙するしかないと。私もそう思うときがありました。そして今も。でも、沈黙しただけでは、その美しさを伝えることができない。伝えるためには言葉が必要。だから、『きれい』という一言が浮かびました」
タカシは過去を掘り起こし思い出した。
「よく覚えているな。確かにそんなことを言ったこともあったかな」
「美しい時間。楽しいと思える時間は人生にそんなに無いとも教えてくれた」
「酔ったついでにそんなことも言ったかもしれない」
「私にとって、今はその時です。美しい時間、楽しい時間。いつか振り返ったら、きっとそう思うでしょう」
タカシはそっとユミを見た。月明かりに照らされた彼女は花に負けないくらいに美しいことに驚いた。だが、もっと驚いたのは、その美しさに何も言わない自分がいることである。一度は彼女を愛しく思い抱いこうと思ったのに。
まるで、時間が止まったように動かない彼女を見て、さすが少し変だと思って、 
「どうした? 何かあったのか?」
「こんな美しい月夜に抱かれてみたいと思ったの」とユミは呟いた。
タカシは何も答えなかった。というよりも何も聞こえていないふりをしたのである。
花の命は短い。女の美しさもその花の命に似ている。綺麗と褒めちぎられるのはほんの一時のこと。長らくクラブXの人気ナンバーワンホステスであったユミも二十八になった。次々と若くて綺麗な娘が入ってきて、入った頃の初々しさも輝きもない。口の悪い者は姥桜とかげ口さえ叩く。彼女自身、散りゆく桜だと思う今日この頃である。そんなときに、十年ぶりに自分と父を捨てた母が現れたのである。ずっと根無し草のように生き、男から男へと渡り歩きてきたが、これで最後と思っていた男から離縁を突き付けられ、追い出された。行くところがなくなり、叔母の家に身を寄せていた。三か月前のことである。

ユミ母はかつてきれいな人だった。だが十年ぶりユミの前に立った別人のように生気がなく、そしてまるで老婆のように衰えていた。そばにいた叔母が「男にいいように利用され捨てられた哀れな末路だよ。お前も気をつけな」と忠告した。
「ユミ、ごめんね。これから一緒に暮らそうなんていうのは虫が良すぎると分かっているけど、頼る人はお前しかない」と母が泣き崩れた。その姿を憎しみと憐みの両方が入り混じった感情で見た。
再会してから、ユミはいろいろと考えた。どう考えても母を見棄てるという結論に達しなかった。そして、叔母から母が倒れた知らせが入ったのは先週のこと。
故郷に戻り母の面倒を見るか、それとも母と永遠に別れ、この地に留まるか、その判断を迫られていた。その判断を心寄せているタカシにかけてみようと思った。仮に一緒になれなくとも、タカシが抱いてくれたなら、もっと別の自分になれる気がしたのだ。ユミは勇気を振り絞ってもう一度頼んだ。
「抱いて……」
タカシは冗談としか受け取れなかった。
真に受けたらひどい目に会う。仮に本音だとしても、一時の恋などする気は起きなかった。
「冗談だろ?」と言うタカシを見た。
真顔だった。ユミはその一言でタカシと一つに成れないと悟った。
「冗談よ。決まっているでしょ」とユミも笑った。
その笑いはどんな悲痛なものであったか。ユミは薄暗いことに感謝にした。明るい昼間であったら、こぼれる涙がみっともなくて走り去るしかなかったから。気付かれないようにそっと涙を拭った。
「もう、そろそろ店に行こう」とタカシは言った。
ユミはこの地を離れる決心が固まった。それから三日後、ユミはタカシにお別れの手紙を書いて消えた。
作品名:春の夜 作家名:楡井英夫