都会の中でつながる
紗子が東京に来て、二十年が経つ。いろんなことがあったけれど、振り返るとあっという間の出来事だった。まるで超特急に乗ってきたように思えた。
三十八歳になった。鏡の中に映る紗子はまるでひび割れた花瓶のようだ。どんなに化粧しようと、崩れゆくのは隠せない。かつては美人でちやほやされた。だが今はほとんど街を歩いていても声をかけられることはない。歳を一つ取る度に何かが削られていく、そんな恐怖を、この頃感じている。
渋谷の近くの祐天寺のマンションから東京の夜景を見るのが、最近の週末の日課となっている。そこから東京の無限に広がるような夜の街並みを眺める。この巨大都市の中でつながる人がほとんどいない。たとえようのない孤独感に、胸が締め付けながらも耐えて、街を見下ろす。眺め終わった後、いつも思う。五十になる前に確実に死のうと。
女優になろうとしていた時期があった。
東京に来て十年近くが経つ。いろんな男と出会った。その中でたくさんのことを教えてくれた男がいた。彼は映画監督になることを夢見ていた。夢を恋人に囁くような口調で語った。いつしか彼に恋心を抱き、彼とつながった。彼さえいれば、どこでも生きていけると信じた。だが、彼は突然別れを告げ、別の女と結婚した。三十二歳の時である。五年の長き春はそこで終わった。彼を殺して自分も死のうと思ったけれど、あまりの愚かな考えに自分が情けなくなり止めた。ずっと前から女優になることが難しいと気づいていた。彼との別れが、その女優への夢を捨てることを決意させた。有名女優と結婚した彼は、紗子に手切れ金として百万円を渡した。紗子は住む場所を変えた。幸い派遣の仕事が見つかり、決して豊かではないけれど、さほど悪くもない生活を送ることができた。
春も半ばの金曜日の朝、故郷の姉から電話が来た。
「母が入院した。きっと長くはない。万が一のことがあったら知らせるから、それまで来なくともいい」という短い電話だった。
姉の美紀とは小さい頃から折り合いが悪かった。美紀は人面だけはよいが、自分よりはるかに綺麗な紗子をただ美しいという理由だけで嫌っていた。二十五の時、婿養子をとった。その際、紗子には「もう帰省しないで」と言った。
紗子が生きていけるのは母が生きていたから。その母が死んだら、確実に生きていけなくなる。五十歳までは何とか生きていこうと思っていたのに、それも難しい話になる。姉の話では長くもって一年。
マンションの近くに小さな公園がある。
どこからバイオリンの音が聞こえた。良く見ると、背の高くて痩せた男が弾いている。
紗子はマンションを出てそばで聞いた。
次の週も、その次の週も、男はやってきて演奏し、紗子はそばで聞いた。二人は酒場で語らった。満月の夜である。紗子は一緒に夜をともにしようと誘った。
ホテルの窓から月が見えた。
月明かりの中で二人、互いの体を確かめた。
「僕は君のことを良く知らない。君もそうだ。でも、こうやって愛し合っている。後悔しないか?」と彼は言った。
紗子は失笑したが、声は漏れなかった。
「後悔なんかしない。後悔するほど若くない。幾つだと思った?」
「三十くらい。とてもきれいだ」
女優を目指した紗子はその後も体の線や顔には気を使っていた。
「嬉しい。でも、もう三十八よ。胸も垂れ下がってきたわ」
「実をいうと、僕の命はそんなに長くない。先天性の病でね。どんなに生きられてもあと数年と言われている。だから旅をしている。旅の途中で東京に寄っただけ。来週には離れる。だから君とは本当の一期一会だ」
避妊しようかという彼の提案を断った。たった一回で妊娠するとは思わなかったからである。
人は死ぬ間際の性欲という信じられないくらい強いという説がある。まさに彼がそうだった。紗子を何度も抱いた。細い体の中にある生というエネルギーの全てを出し切るかのように、紗子には思われた。
夜明け前に彼は消え、一人残された紗子はゆっくりとシャワーを浴びた。体のところどころに彼が噛んだり掴んだり跡を見て、体がまた火照ってきた。一夜の恋だったが、後悔しなかった。
季節は春から夏になった。
紗子は妊娠した。夢のようだった。あの音楽家の種を宿したのである。名前もよく分からない音楽家。そんなことよりも彼女はこの大都会で独りぼっちでなくなったことを素直に喜んだ。
そんなとき母から電話が来た。話をするのは数年ぶりだった。話しながら涙が流れてきた。
「あなたには何もしてあげられなかったけど、一人で大丈夫なの? この電話が最後かもしれない。あなたに、僅かばかりだけど、貯金をしておいたの。いつかお嫁に行くと思って。それを送るから、使って」
そんな内容だった。
紗子は親孝行できなかったことを泣きながら何度も詫びた。そして、一つの命を授かったことを報告した。
「二人で生きていく。このお腹の子が歩けるようになったら、姉が何と言おうと故郷に帰る」と宣言した。
電話を終えた後、紗子は十年後のことを夢見ていた。それはお腹の中の子と一緒に歩いている姿であった。もう彼女は高層ビルから夜の大都会を眺めることはないだろう。そして自殺も考えることも。