白鱗
中国山地のなだらかな山の中にその滝はあった。落差が七十メートルを越える白蛇の滝。白く水の落ちるさまが名前の由来である。秋には紅葉の渓谷を、春には桜並木の堤に抱かれて、その美しさは錦と称えられ、錦川と呼ばれた。真夏に時折白い蛇が体をくねらせながらその川を渡った。怪しい美しさが白い絵の具を流したように川面に描かれ、人々を驚かせた。白い蛇は青大将の白子(シロコ、アルビノ)でおぞましいほど白く、細い舌と目は血が透いて真っ赤である。
少年の家は山のふもと、錦川の堤にあった。川に沿って坂道をのぼって行くと鎮守の森があり、社の庭園に大きな池が造られていた。池のなかに数匹の錦鯉が飼われ、その中に白鷺のように真っ白で鱗がキラキラひかり、目の赤いアルビノの鯉、白鱗がいた。少年は六十センチあるその巨鯉をいとおしく思っていた。生まれながらに色素が欠落し、真っ白であることに少年は強く惹かれていた。
少年には血の繋がる者の中に複数の発狂する者がいた。もうすぐ自分も狂うかも知れない。すらりとした長身の姉もその一人だった。狂って、波打つ長い髪、薄汚れた服に包まれている悲しい姉。村の子供たちはお前の姉さんがまた素っ裸で、川で泳いでいたぞ、と少年をからかった。狂ってもまだ見事な泳法を見せ、深い川をひゅるひゅると白い蛇のように渡った。水にぬれると長い髪は黒々と輝き、恥毛はしっとり濡れ、白い肌は陽に照らされていっそう白く、引き締まった小さな乳房だった。子供たちは橋の上から、おーいと呼びかけ、大人たちはその美しい裸体を欄干からじっと眺めていた。
姉の姿を少年は白鱗に見ていたのかもしれない。夜明け前いつもムカデ、ミミズ、ときには庭でこしらえたサツマイモをふかし芋にし、池にやって来て巨鯉にあたえていた。鯉は差し出す少年の手の平に乗って、パクパクを食べるほどなついていた。
敗戦の年、この村にも飢えがやってきて社の池から鯉が盗まれるようになった。村人の食用になる前に、白鱗だけは助けてやらなければ、逃がしてやらなければ、と少年は思った。社の人に気づかれないように音を立てないでこっそり盗むのは、父親から聞いていたあの方法しかないと思った。
まだ暗い内に起き出し、ヤカンに油を入れて、火にかけ、水滴を落とすとジュウと音のするまで熱した。そしてその熱油を注意深く、二升の特大瓶に少年は注ぎ込んだ。ガラス瓶は、油を注ぎ込んだ深さに見事にピリッと音を立てひび割れた。底の抜けた瓶は丸い鋭利な切り口になった。鯉を傷つけないために切り口にゆっくりゆっくりヤスリをかける。ガラスをこする甲高い音、少しでも力が入るとガラスはピリッと新しい切っ先を作って壊れ、少年の指先をシュッと傷つけた。流れる血をシャツになすり付けながら、注意深く一回一回ヤスリをかけた。
底を抜いた瓶を抱いて少年は朝焼けの中、池に走った。二升瓶の注ぎ口から糸と釣り針を通し、ミミズを餌にして、瓶をゆっくり水に浸した。いつもの朝のように何の疑いもなく、ぱくりと白鱗はミミズを飲み込んだ。いっきにぐいと糸を引っ張ると鯉は頭から半身をすっぽり瓶の中にはまり込んだ。まったく身動きできない。あばれることもなく、音を立てることもなく、社の人に気付かれる心配などひとつもなかった。そして、汗臭い血の付いたシャツを脱ぎ、鯉を瓶ごと大切にくるんで、一目散に滝壺まで走った。針を外してやり、抱きかかえて鯉を水の中に離すと、大きく体をくねらせたかと思うと、目にもとまらぬ速さで白鱗は水の落ちる深みに消えていった。
それから三年、少年もまた姉の発狂した年齢になった。すでに去年の夏、姉は失踪していた。村人も少年もそれを不思議に思わなかった。捜索も行われなかった。それがこの血筋の宿命のような気がするのだ。姉は鉄格子のある大阪の気違い病院にいるとか、外人相手のパンパンをしているとか、村人はうわさし、子供たちは川を下って、あのヒトは白蛇に変身したのだと言った。
滝壺に白鱗を求めて少年は毎日のようにやって来た。小高い岩の上から滝壺を見つめた。深くえぐられた水底の穴倉にでもいるのか、まったく白鱗は姿を現すことはない。毎日毎日、水面を見つめていると、見えるはずのないものを、いるはずのないものを、薄く霧のかかる水面に見るようになってくる。すこしずつ狂ってきたのかもしれない。薄汚くはだけた胸で村人から乳房をのぞかれ、野良犬のように村の中を歩きまわった姉。姉のようになる事ことを少年はひどく怖がった。自分も少しずつ姉のようになってきたのではと恐れていた。あるはずのない光景が少年の眼の前に現れるのだ。数匹の真っ白な蛇が体をくねらせながら縺れ合うようにゆっくり滝壺を泳ぎ回っていた。深い底から真っ白な一メートルを超える大きな鯉が浮かび上がって来ては、水面に鰭をゆっくり左右に振りながら、悠々と泳ぎ、白い蛇たちと互いに体を触れながら、もつれあい戯れていた。そして白い鯉は仰向けになると胸鰭を広げて、少年を手招きするようにさえ動かした。深く水のなかにもぐったかと思うと、突如空中へ高く飛び跳ねた。それは一瞬、すらりとした姉の姿のように見えた。下半身に鱗がひかり尾鰭のある白い裸体。見えるはずのないものに羽交い絞めにされ、少年はやっと心を決めた。
苔の生えている、水しぶきのかかる岩と岩の隙間を、木々を掴みながら、草を掴みながら、すべりやすい岩場を四つん這いになって、蛇のように身をくねらせながら登って行った。水で重くなったシャツを脱ぎ、草履を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、頂上の岩の上に立ったときは、擦り傷だらけの半裸であった。少年は白蛇の滝の頂上から滝壺を覗き込んだ。真っ白な巨大な鯉が黒い滝壺を悠々と円を描きながら泳いでいる。これは幻ではないと思った。少年は身をのりだし、そしてそのまま滝壺に向かって落下して行った。からだが岩にぶつかるたびに白い飛沫に血がにじみ、頭蓋や背骨を折りながら少年は彼方に落ちていった。
堤の少年の家は誰も住まない廃家になった。父は戦争で、母は八月六日終戦の年広島の軍需工場にいた。一九五一年、岩国市を襲ったルース台風で土石流のため家屋は倒壊し、流木や土石を取り除くとその下から長い髪が巻き付いた白い頭骨があらわれた。少年は姉を殺し、床下に葬っていた。