二人で笑おう
眺め
1『僕』
「お邪魔します」
病室のベッドで彼女は寝ていた。入り口には背を向けているため、顔は見えない。
「お帰り下さい」
見舞いの客の僕に対しても、姿勢を変えることなく、ぶっきらぼうにそう言い放つ。その透き通った声に不思議と安心する。いつも通りだ。
「お断りします、目の調子はどう?」
部屋の隅にある椅子をベッドのそばに寄せ、腰を下ろした。
「微妙、うす暗い」
彼女は寝がえりを打ち、天井に顔を向けた。ようやく目を向けてくれると思ったのに。意地でも僕に視線を向けない気らしい。
「手術も投薬ももう無駄なんだっけ」
椅子から立ち上がり、彼女の顔を覗き込もうとする。顔を窓へと戻された。
「うん、無理」
悲しいとか、嫌だとか、そういう感情は声色からは感じられない。諦めて僕は椅子へと戻った。
「いつかはわからないのか?」
あえて主語は抜いて僕は問う。お互いの暗黙の了解くらいは守らなければ。
「早かったら、今週中くらいかもって」
失明すると告げられ、視界が日に日に暗転する恐怖に、彼女は襲われている。どれくらいの恐怖なのか、考えても僕にはわからない。
僕は彼女ではないから。
心を殺し、歯を食いしばりながら漏れ出してしまいそうな気持ちを飲み込んだ。彼女にばれない程度に、深呼吸で肺の中の空気を入れ替えた。
「まあ、あとは口内炎がちょっとひどいくらい」
そう言って彼女は飴玉を転がすように口内を舌で舐めまわす。
「で、予想以上に目の進行が早かったのか」
「そういうこと」
また彼女は他人事のように、どうでもよさそうに肯定する。一番辛いのは君のはずなのに。
春休みから、毎日こうして会いに来ているのに、彼女の心情は未だに見えてこない。助けを求めたいのか、それとも放っておいてほしいのか。
少しでもヒントを出してくれてもいいのに。
「暇」
しばらく会話が途切れた後、変わらず彼女は僕に視線を向けないままぼやいた。まあもうすぐ入院から一カ月になるし、ずっと寝たきりも暇だろう。
「そうだ、京都へ行こう」
突拍子もないことを言いだした。
「無理、遠いだろ」
「寺に行こう」
「近所の神社で我慢しなさい」
僕が言い放つと彼女はまたふてくされて、ベッドにうつ伏せになる。全く、手のかかる子だ。
「そうだ、ラブホへ行こう」僕は言った。
「行かねえよ死ね」
うつぶせのまま、籠った声で入院患者に死ねと言われた。ショックだ。
「わかったよ」
代案を出すため、思考を巡らせる。窓の外に目をやると、桜の花びらが踊るように舞っていた。空は雲一つなく真っ青で、吸い込まれそうだ。
それならこれしかない。
「散歩しよう、普通に」
僕の妥協案に、彼女はようやくこっちを向いた。笑顔とまではいかないが上機嫌そうに、口元を緩める。
「よし行こう」
さっきと声のトーンは変わらないが、表情からしてうれしそうだ。声色で変化を出してくれるともっと楽なのだが、それはもう諦めよう。
「近くの海が見える公園まででいいかな」
僕らの町は海を埋め立てて造られている。歩いて十五分くらいのところに、おいしいアイスクリームの売っている公園があるのだ。景色もよく、デートにはもってこいだろう。
「いいね」
彼女は体を起こし、ベッドに腰かけた状態で自己主張のほとんどない胸を反らした。
「今失礼なこと考えた?」
心を読まれていた。
「いや、別に」
「ふうん」
「胸小さいなと思っただけ」
ベッドの枕が顔面に飛んできた。案外痛いんだぞ、これ。鼻のつんとした地味な痛みを我慢しながら僕はベッドの脇にある腕時計と杖を取り、ベッドに腰掛ける彼女に渡した。
開いた窓から、桜の花びらがひらりと舞い込んだ。
病院を出ると、春独特の生ぬるい風が僕らを包み、春の甘い空気を運んできた。桜の花びらが風と同時にぶわっと舞う。春真っ盛りとはこのことだ。
僕らは歩幅を合わせて歩き出す。彼女のついている杖がアスファルトを一定のリズムで、コツコツと音を鳴らした。
「なんかピンクの変なのが」
目の前に舞った桜の花びらを見て彼女は呟いた。予想以上に症状は進行しているのだろうか。
今僕が見ているものの、何割くらいが彼女も共有できているのだろう。
「桜だな」
「ああ、今何月だっけ」
「四月、いつかくらいは判断しなよ」
「時間だけ分かればいいじゃん、うるさいな」
彼女は拗ねたように、自分の腕時計の小さなボタンを押した。
『ただ今の時刻は、午後、二時、三十六分です』
腕時計の無機質な機械音が今の時間を告げた。
「叔母さんは来ないの? お見舞い」
歩きながら僕はきいた。その腕時計の送り主のことが、ふと気になったのだ。僕を経由してこれを渡したのだけれど。
「最初の一日だけかな」
それっきり彼女に家族の話題を出すのはやめることにした。
「厄病神だしね、私」
厄病神と自称しているというのに、その声はあくまで無感情だ。いや、無感情に徹しているようにも感じた。
「辛くないの?」
「別に」
彼女は立ち止り、空を見上げた。僕もつられて上を見上げる。青色のキャンパスに、余計なものは何も描かれていない。爽快感のあふれる青空は、心のいい清涼剤だ。吹き抜ける風がさらに気分を高揚させる。
「私さ、まだわかるんだ」
「え?」
不意に彼女が言った。
「空の青さだけは、まだわかるんだよね。ぼんやり」
「ぼんやりか」
「うん、ぼんやり」
しばらく会話が途切れて、僕はまた思いつきで言ってみた。
「わかんなくなったら僕が伝えるよ」
「なにを?」
「空青いよ〜って」
「あんた、曇っててもそう言いそう」
大して興味もなさそうに言い放つ彼女。我ながら恥ずかしいことを言ったもんだ。自分の顔が赤い気がしなくもない。体も熱い。背中までちくちくしてきた。僕がもだえている間に、彼女は視線を空から病院の方へ移していた。屋上のフェンスが壊れている。
「屋上のフェンス」
彼女が独り言のように呟く。
「あー、壊れているね、誰がやったんだろ」
「誰か死にたくてやったのかな?」
「どうだろ」
フェンスが壊れているからといって、別に死にたくて壊したとは限らないだろう。ただのいたずらかもしれないのに。
「明後日には業者の人が直すって」
「それまで屋上は閉鎖?」
再び前を向き、彼女は僕より先を行く、あわてて僕も追いかけた。
「そだね、まあ鍵最近無くなったみたいだけど」
ほう、詳しいな。ここで僕が名探偵なら犯人は君だと言うところなのだろうけど、あいにく僕は名探偵でもなければ怪盗でもない。だから普通に感心することにした。
「よく知っているね」
「一か月もいたらね」
彼女は得意げにそう言って、僕より先に横断歩道の押しボタンを押した。ピピピピと機械音が、車の走行音に交じる。
「やっぱり車多いね」
通り過ぎる車を見ながら、彼女は言った。
「春休みだからね」
「あんた春休み遊ばないの? 暇なの?」
随分おかしなことを言うな。寝言だろうかと疑ったが彼女は寝てなかった。当たり前だが。
「君と遊んでる」
1『僕』
「お邪魔します」
病室のベッドで彼女は寝ていた。入り口には背を向けているため、顔は見えない。
「お帰り下さい」
見舞いの客の僕に対しても、姿勢を変えることなく、ぶっきらぼうにそう言い放つ。その透き通った声に不思議と安心する。いつも通りだ。
「お断りします、目の調子はどう?」
部屋の隅にある椅子をベッドのそばに寄せ、腰を下ろした。
「微妙、うす暗い」
彼女は寝がえりを打ち、天井に顔を向けた。ようやく目を向けてくれると思ったのに。意地でも僕に視線を向けない気らしい。
「手術も投薬ももう無駄なんだっけ」
椅子から立ち上がり、彼女の顔を覗き込もうとする。顔を窓へと戻された。
「うん、無理」
悲しいとか、嫌だとか、そういう感情は声色からは感じられない。諦めて僕は椅子へと戻った。
「いつかはわからないのか?」
あえて主語は抜いて僕は問う。お互いの暗黙の了解くらいは守らなければ。
「早かったら、今週中くらいかもって」
失明すると告げられ、視界が日に日に暗転する恐怖に、彼女は襲われている。どれくらいの恐怖なのか、考えても僕にはわからない。
僕は彼女ではないから。
心を殺し、歯を食いしばりながら漏れ出してしまいそうな気持ちを飲み込んだ。彼女にばれない程度に、深呼吸で肺の中の空気を入れ替えた。
「まあ、あとは口内炎がちょっとひどいくらい」
そう言って彼女は飴玉を転がすように口内を舌で舐めまわす。
「で、予想以上に目の進行が早かったのか」
「そういうこと」
また彼女は他人事のように、どうでもよさそうに肯定する。一番辛いのは君のはずなのに。
春休みから、毎日こうして会いに来ているのに、彼女の心情は未だに見えてこない。助けを求めたいのか、それとも放っておいてほしいのか。
少しでもヒントを出してくれてもいいのに。
「暇」
しばらく会話が途切れた後、変わらず彼女は僕に視線を向けないままぼやいた。まあもうすぐ入院から一カ月になるし、ずっと寝たきりも暇だろう。
「そうだ、京都へ行こう」
突拍子もないことを言いだした。
「無理、遠いだろ」
「寺に行こう」
「近所の神社で我慢しなさい」
僕が言い放つと彼女はまたふてくされて、ベッドにうつ伏せになる。全く、手のかかる子だ。
「そうだ、ラブホへ行こう」僕は言った。
「行かねえよ死ね」
うつぶせのまま、籠った声で入院患者に死ねと言われた。ショックだ。
「わかったよ」
代案を出すため、思考を巡らせる。窓の外に目をやると、桜の花びらが踊るように舞っていた。空は雲一つなく真っ青で、吸い込まれそうだ。
それならこれしかない。
「散歩しよう、普通に」
僕の妥協案に、彼女はようやくこっちを向いた。笑顔とまではいかないが上機嫌そうに、口元を緩める。
「よし行こう」
さっきと声のトーンは変わらないが、表情からしてうれしそうだ。声色で変化を出してくれるともっと楽なのだが、それはもう諦めよう。
「近くの海が見える公園まででいいかな」
僕らの町は海を埋め立てて造られている。歩いて十五分くらいのところに、おいしいアイスクリームの売っている公園があるのだ。景色もよく、デートにはもってこいだろう。
「いいね」
彼女は体を起こし、ベッドに腰かけた状態で自己主張のほとんどない胸を反らした。
「今失礼なこと考えた?」
心を読まれていた。
「いや、別に」
「ふうん」
「胸小さいなと思っただけ」
ベッドの枕が顔面に飛んできた。案外痛いんだぞ、これ。鼻のつんとした地味な痛みを我慢しながら僕はベッドの脇にある腕時計と杖を取り、ベッドに腰掛ける彼女に渡した。
開いた窓から、桜の花びらがひらりと舞い込んだ。
病院を出ると、春独特の生ぬるい風が僕らを包み、春の甘い空気を運んできた。桜の花びらが風と同時にぶわっと舞う。春真っ盛りとはこのことだ。
僕らは歩幅を合わせて歩き出す。彼女のついている杖がアスファルトを一定のリズムで、コツコツと音を鳴らした。
「なんかピンクの変なのが」
目の前に舞った桜の花びらを見て彼女は呟いた。予想以上に症状は進行しているのだろうか。
今僕が見ているものの、何割くらいが彼女も共有できているのだろう。
「桜だな」
「ああ、今何月だっけ」
「四月、いつかくらいは判断しなよ」
「時間だけ分かればいいじゃん、うるさいな」
彼女は拗ねたように、自分の腕時計の小さなボタンを押した。
『ただ今の時刻は、午後、二時、三十六分です』
腕時計の無機質な機械音が今の時間を告げた。
「叔母さんは来ないの? お見舞い」
歩きながら僕はきいた。その腕時計の送り主のことが、ふと気になったのだ。僕を経由してこれを渡したのだけれど。
「最初の一日だけかな」
それっきり彼女に家族の話題を出すのはやめることにした。
「厄病神だしね、私」
厄病神と自称しているというのに、その声はあくまで無感情だ。いや、無感情に徹しているようにも感じた。
「辛くないの?」
「別に」
彼女は立ち止り、空を見上げた。僕もつられて上を見上げる。青色のキャンパスに、余計なものは何も描かれていない。爽快感のあふれる青空は、心のいい清涼剤だ。吹き抜ける風がさらに気分を高揚させる。
「私さ、まだわかるんだ」
「え?」
不意に彼女が言った。
「空の青さだけは、まだわかるんだよね。ぼんやり」
「ぼんやりか」
「うん、ぼんやり」
しばらく会話が途切れて、僕はまた思いつきで言ってみた。
「わかんなくなったら僕が伝えるよ」
「なにを?」
「空青いよ〜って」
「あんた、曇っててもそう言いそう」
大して興味もなさそうに言い放つ彼女。我ながら恥ずかしいことを言ったもんだ。自分の顔が赤い気がしなくもない。体も熱い。背中までちくちくしてきた。僕がもだえている間に、彼女は視線を空から病院の方へ移していた。屋上のフェンスが壊れている。
「屋上のフェンス」
彼女が独り言のように呟く。
「あー、壊れているね、誰がやったんだろ」
「誰か死にたくてやったのかな?」
「どうだろ」
フェンスが壊れているからといって、別に死にたくて壊したとは限らないだろう。ただのいたずらかもしれないのに。
「明後日には業者の人が直すって」
「それまで屋上は閉鎖?」
再び前を向き、彼女は僕より先を行く、あわてて僕も追いかけた。
「そだね、まあ鍵最近無くなったみたいだけど」
ほう、詳しいな。ここで僕が名探偵なら犯人は君だと言うところなのだろうけど、あいにく僕は名探偵でもなければ怪盗でもない。だから普通に感心することにした。
「よく知っているね」
「一か月もいたらね」
彼女は得意げにそう言って、僕より先に横断歩道の押しボタンを押した。ピピピピと機械音が、車の走行音に交じる。
「やっぱり車多いね」
通り過ぎる車を見ながら、彼女は言った。
「春休みだからね」
「あんた春休み遊ばないの? 暇なの?」
随分おかしなことを言うな。寝言だろうかと疑ったが彼女は寝てなかった。当たり前だが。
「君と遊んでる」