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諸行無常

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諸行無常


「誰のために伸ばしてるの、これ」
 背筋に沿うように流れていた髪を結い上げて、立ち上がったときだった。ポニーテールに指を絡ませて見上げて来る尚毅は強い目をしている。今でも20センチ以上の身長差があるくらいだからこれは双方にとって珍しいアングルであるといえる。
 真理は瞬いて、顔を赤くした。
「誰のためでもないよ」
 言う声は細い。窓から漏れ入る午後の光を受けて弾く毛先から尚毅の指が離れると、逃げるように部屋から出て行った。
 自分でも顔面に熱を持っているのが分かる。もしかしてと額に手を当てるとやはり熱かった。
 病気みたいだと真理は思った。
 しかしこんなものが本当に病気だったら恥ずかしい。きっとどんなに悪化しようと、病院になど行けない。
 言い当てられて頭に血が上った。その気持ちは嫉妬だった。
 昔、尚毅が子どもの頃は二人ともこの家に住んでいた。尚毅は真理と兄妹でも何でもなく、真理の方も尚毅をただの兄のようなものだとは思っていなかったが、周囲は二人の関係をそのように捉えた。真理の髪は洗うのが面倒だという女子らしからぬ理由から短かったけれども、尚毅が家に連れて来る女性は大方が長髪で、さらに動きやすいからという理由でキュロット姿をしていた真理に対して、『かわいい弟さんじゃん』などと言い放った者は少なくない。
 尚毅は髪の長い女が好きなのだと知って真理は衝撃を受けたが、自分自身がそのように変わることはなかなか難しかった。真理が長髪になったとして、女らしくなったとして、尚毅にいったいどのような影響を与えるのか、それとも与えられるものなどないのかと考えると、出来なかったのだ。
 尚毅がいなくなってから真理は髪を徐々に伸ばし、言葉遣いを意識して変えた。
 彼が連れていた、今どきの若い女性のように。
「朝子さん、手伝う」
 キッチンに入ると朝子が紅茶を淹れていた。奪い取るようにしてポットを手にすると、ポットごと小刻みに震えた。
 動揺している。
 尚毅が今日、帰って来るとは知らなかった。
「お嬢さんがそんなことしなくてもよろしいったら。それより尚毅さんとするお話もたくさんあるでしょうに、無理をなさって」
「無理なんかしてないよ」
「ケーキがありますけどね、クッキーもおいしいのがあるんですよ、もう店先で迷っちゃって。お嬢さんはどちらがよろしい?あら、でも男の人がいるんですから、どちらもお出しするものですかねえ」
 朝子は真理の返事など聞こえていないようだ。小さな体を細々と働かせて、あれもこれもと皿に乗せている。
「尚毅さんはこのお店のチーズケーキがお好きなようでしたからね」
 真理が横目でケーキの入っていた箱を確認すると、知らない店の名前だった。どうして朝子は尚毅のことを真理よりも知っているのだろうかと考える。学校から帰って来たばかりの真理に尚毅が来ていると告げたのは朝子で、もてなしの用意が良く、焦りの見えない様子からはこの来訪を以前から承知していたことが窺えた。
 ポットを置いた右手で、左手の甲を小さく叩く。気取られないように真理は溜め息を吐いた。
 朝子にまで嫉妬をしている浅ましい自分を叱ったつもりだ。
「じゃあ後はお嬢さん、お願いしますね」
「えっ。あたしが持って行くの」
「朝子はお邪魔をしませんよ。これからお夕飯の準備がありますからね」
 満面に笑顔を浮かべて朝子がキッチンから真理を追い出す。そういう表情を浮かべると、老女は仏様のように見えると真理は前々から思っていた。どう応えて良いものやら分からなくて逆に力強く言った。
「わかった。ばいばい!」
「お嬢さん、後ろ髪がほつれていますよみっともない!」
 廊下の途中にある鏡の前で立ち止まり、紅茶と菓子を乗せたトレーを一度床に置いて、髪を結い直す。左右を振り向いてみっともなくないかどうかを確認した。朝子のことが大好きだと思って、真理は自然と笑顔になっていた。
 部屋へ戻ると尚毅が頬杖を付いて瞼を下ろしていた。かけそうになった声を飲み込んで、真理は物音を立てないようにして移動をする。
 あらためて尚毅のことを眺めたところで、真理にはその姿が記憶の中の彼と寸分違わず同じもののように感じられ、そんな自分の甘さにほとほと嫌気が差す。しかし真理は今のところはそんなふうな負の感情を脇に置いて置くことにした。朝子がくれた明るい気持ちを少しでも長く維持させたいと思ったのだ。首を左右に振って気持ちを切り替えると、つられたポニーテールが真理の両頬を叩いた。
 茶色い髪の色も、その濃淡も、耳にかかる長さも、指先の爪の様子まで以前の尚毅と同じようだ。真理の知っている尚毅、真理の手を握って連れ立って歩いた尚毅が、舞い戻って来たかのようだ。
 実際にそんなことは有り得ないのが分かっていて、真理は夢想した。ただ、唇の赤みが幾分薄いように思われた。
 抱えていたトレーをテーブルに置き、カーテンを閉めて太陽の光を遮ろうと身を翻しかけたところで、音もなく瞼を開いていた尚毅と目が合う。
「起きてたの」
「寝てないよ。休んでただけ」
「疲れたんだったら、ベッドで寝てた方がよくない?」
「そんなに気を使わなくていい。昨日、あまり寝てないから、それでちょっとね」
 驚いた胸の内を知られないように言葉を交わすことに苦労しながら、カップに紅茶を注ぐ。注ぎかけて、あっという声を出す。
「カーテン閉めよっか」
「気を使わなくていいって。それより会わなかった間の、真理の話を聞かせて」
 そう言う尚毅の表情は真摯だった。真理はぐっと喉と胸に何か巨大なものが詰まったような感覚をおぼえて、カーテンを閉めに行った。
 途中になっていた紅茶を注いでは尚毅の前に置いてやると、彼はありがとうと礼を言ったが、すぐに口を付けようとはしない。真理の顔を見て、話し出すのを待っている。それが分かっていて真理はもどかしい気持ちになりながら、「ここのチーズケーキが尚毅は好きなんだって、良かったじゃん。朝子さんが買っといてくれたんだよ、尚毅のためだよ」と言った。
「あとでお礼言うよ。それで、その髪が誰のために伸ばされてるのか、教えてほしいんだけどさ」
「なんで帰って来たの」
 言葉尻を奪うようにして真理が言い放つ。
 その言葉がつっけんどんなふうになって辺りに響いたことを真理は気にしたが、尚毅は別のことを気にしたようだった。眉をひそめて唇の形を歪める。
「誤魔化すんだ」
「誤魔化してるのはそっちじゃん!」
 自分が誤魔化していることを一瞬忘れて、真理は語気を荒くして応答した。一瞬後には、誤魔化していたことを思い出したため声色が曖昧なものに変わった。
「ほら、違うっていうかさ。今は…いいじゃん、あたしのこととか。それより教えてよ。なんで帰って来たの」
「今はということは、いつかは教えてくれるのか」
「ねえ、なんで帰って来たの」
 真理もしつこいが尚毅も大概しつこかった。言えるわけがないと思って、真理は皮肉るような尚毅の物言いにも肯定も否定もせずに無視をした。
 紅茶に口を付けて、離す。男は困っている表情だ。
「真理。違う、さっきも言っただろ、帰って来たんじゃない。遊びに来たんだ」
「そんなの、どっちでもいいわ」
作品名:諸行無常 作家名:ぬるたろう