「小説 『私』は『私』であって『私』ではない」
この論理の中に、「私」は埋もれているのだ。もう十分に埋め込まれて、産んでくれた両親に訊いてみたいみたいところである。ふたりともこの世にはいないが。実はどこかに「いる」っていうことにもなっているけれども。つまり、私を私と決めつける理由がどうもあまりない、どころは少なくなってきている。両親が「お前はお前だ」といつの間にか決めていたから「私は私なのである」。のか。そうなのか、疑問である。なぜなら私が私である理由は実はほんとうに少ない。私が「親」でないのはわかるが、「私」というものは、本当は「ない」のではないかと思うのである。お前はこれこれこういうものだと、人類の歴史の中で慣習的に決められていて、その流れで、一人の人類として、名前とかをもらっているけれども、別によーく考えると私が私である「理由」はあまり明確ではないと。みんなが「お前は〇〇だ」というから、そうなのであって、別にそうじゃないよと言ってもいい。けれどそうじゃない理由が挙げられないから「お前は〇〇だ!」というのである。そして「私」がなにかをすれば、失敗をしたり、出来が悪かったりすれば、人はだから、ダメなんだ!役に立ってないんだ!頭がオカシイんだ!とか、ほかの「私」たちと比較されて、人はこんな「私」が私を叱り、なじる。そうすると私は私に自信がなくなり、私は私を捨てたくなる。のかも知れない。と私は思う。と感じる。それをなぜ他人(ヒト)は否定したり、説得したり、オルグったり、洗脳したりするのだろうかと、それこそ私は思うのである。あなたの「私」と私の「私」は、そんなに違わないと思うのだ。優劣をつけてきた(つけたがる)歴史は、「私」という「幻想」をそれぞれに思い込ませて、その「生きる」という時間軸の中で、賢く生きることをこの生の「善」とし、あるルールを守れないヒトや不器用なヒトを「悪」として裁いて、差別して、区別して、例えばよりよい「日本」を作るんだ!などと言いながら、ヒトの上に立ち上がって、まさにヒトの背や顔の上に乗って立立って、偉ぶって、賢こぶって、踏み躙るのだが、そういうヒトこそ「私」ということを全く認識できていないと私は思う。ある国とか集団とか、すべてにおいて、「私」は「私」であるなどと、云えるはずがないと私は思うのである。つまり、私「たち」という言葉はないのである。ということは、この世界がまとまるなんて「嘘」なのである。しかし、一部の人々のためにそれは「ある」。それが現実という意味での「ある」。私たちのためではない。ある一人の「私」のためである。だから、そういうことによって、私は「私」であることに疑問を持つのである。がしかし、そうも言ってられないので「私」というのである。だから、私は「私」であって、「私」ではない。もっと言いかえれば、私はあまり「私」でいたくないのである。だから、私は「あなた」になってもいい。あなたが「私」になってくれてもいい。そうすれば、私たちという「世界=概念」が生まれるかも知れない。いまの世界とは違う「世界」という意味で。そうすれば、この星ももっと素晴らしい星になるような気がするのである。一つになるって、そういうことだと思うのである。ただ、これはただの「フィクション」なので、私という「フィクション」と言っても同じこと。私は「虚構」である。だから、死んでも同じなのである。生きていることも死んでいることも同じである。あ、飛躍した。いいのである。「フィクション」なので。虚構は虚構ではない。ヒトはじつはヒトではない。では、何者なのか。いまのところ、「最も寂しい動物」であることは間違いないだろう。寂しいから、「私」なのである。虚構の私なのである。そしてこれが、すべて「嘘」なのである。嘘の中に「私」はいるから、「ほんと」を求める。「私」は「私」。このなかに、すべてがある。「不幸」という「嘘」のすべてが。どこその誰かがいうように「現象」なのか。いや違う。「『私』は不幸の始まり」なのだ。と、私は思うのである。そしてこれは私の『小説』なのだ。(了)
作品名:「小説 『私』は『私』であって『私』ではない」 作家名:佐崎 三郎