風鈴
背の低い生垣越しに、腰高な窓の中にある双子の洋間を通して裏庭が見えている。玄関脇は窪みになっていて、蔓植物の棚が干からびている。その部分だけが漆喰壁で、その部分にだけ残照が、植物棚の蔓植物の曲線を二次元平面に焼き付けている。それは微かに震えて見え、枯葉を透かした橙色が中心から周辺に向けて黄色、そして白色へとたらしこまれていく様は、冷たくて白い壁に一点の温もりと、時の酷さとを展示する。
窪みの向かい側には、小さい格子が嵌っている。玄関の中をそこから覗く。日本家屋に特有の闇の底を、白刃の光が舌のように這っている。
木戸の格子の、極めて限定された一筋が硝子にすりかえられており、七色に分解された光が逡巡する廊下は、谷底のように深く、遥か上方に穿たれた天窓から落下する光は、この頭に到達する前に霧散する。無数に浮かぶ細やかな白い塵の狂乱。固着された空間をさらに閉ざす乱反射。
いつもまにか、玄関脇の階段室にいる。ここを設計した職人の弟子が説明する。
「時代に磨きこまれた艶、曲木の極限を追求した手すり、塗り回された紅殻。そして、透過光を否定した切子細工」
ふと見ると、小さな格子窓の向こう側に、時の磔が再び見える。無音。二階屋であったことに漸く気づいた。軽やかな眩暈。
階段室は賑わっている。弟子は口角に泡を飛ばして説明する。それに背を向けて住人である奥方は、右や左を指し示す。白魚のような指先が、油断をすると、ほの暗い踊り場へと吸い込まれて消える。
口上――
「左手は取次ぎ茶の間奥座敷と続きます。広縁は六尺幅で柾目を生かした総木細工。玄関からは決して広くは見えませんが、奥へ、横へと広がる様は、ラビリンスラビリントスかと見まごうほどに、長く深くへ引き込んで参りましょう」
遠くから微かに聞こえる童唄に奥方の髷がなぶられる。心が震える。
階段室は玄関の脇にある。その前は板の引き込み扉に塞がれている。廊下の幅は三尺をきる。木戸の向こうはと手を伸ばすと、誰かがとっさに手を払うので、視線が廊下と平行になる。そして、戦慄。果ても無く直進する狭い廊下は、無限遠に収斂する。
木戸の向こうも長く続く控えの間。引き込み扉の終わる辺りにモザイクタイルの洗面台が、四方板張りの小室によく似合う。鏡だけが妙に霞んで、連綿と続くトンネルのような部屋を暈している。扉の無いままに浴室がある。袖壁と突き当たりの壁とを結ぶ三角形に彫り込まれた湯殿。徹底的なモザイクタイル。窓は無い。しかし、立ちのぼる湯気が軟らかい光を纏ってみえる。
廊下を進むと突然に、空間が横へ広がった。引きずられるように膨張する身体。空虚が詰まった身体が無を孕んで。そんな幻惑。
左手には格子扉。室外の意匠を凝らした料亭作り。飴色の式台と玉砂利を敷きつめた坪庭の間を、飛び石伝いに襖へ取り付く。二間続きの和室をぐるりと巡る猫間障子。柔らかな光は戸外からのものか。空間が広がる光景は雪化粧よりの照り返し。幻灯のように震えているのは竹林のシルエット。カラ、カラ、カツンと響くのは竹がぶつかる音だろう。
「いいえ、あれは主人の身体」
うなだれるのは奥方とも見えない妙齢の女人。それに応える男の声。
「この家には何かが足りないと思っておりました。漂うスープのこの香り、沸かしたばかりの湯殿の熱気。そして水を打たれた一輪挿。黒い猫には赤い布、琥珀の瞳に銀の鈴。しかし、唯一つ、足りないものがありました」
声は二間続きのあちらから。二間続きとはいえ、先刻庭から垣間見た洋間の双子には程遠く、純和風ゆえに欄干は透かし彫り。はしたないとは思いながら、三方重ねて爪先立ち。
「何故、これほどの屋敷に主の影が見えないのか。私にはそれが解せない。しかし、高らかでいて陰にこもるこの竹林の拍子。貴女はそれを主人の身体だという」
「このように長い屋敷に住んでおりますと、あちらとこちらとで時間まで、隔てて過ぎるものでございましょうか」
ハッと振り返る。右手の猫間障子には雪景色が映えている。背後の地窓からも朧に白く輝く物が見える。そして左手は、自分が今踏み込んできたばかりの広い飴色の式台を越えて、開け放したはずの琳派の襖は一面に輝く白い物へと変わっている。そして、足台にした三方はゴロリと丸い石仏。すがりついているはずの手が両脇に垂れ、自分は一個の風鈴だった。冷風に煽られて打ち当たる両の脛が、カツリ、カツリと音を立てる。
「奥様」
「貴方」
目の前の光景は、四方を滲む光に隈取られた深い闇の鈍色の中、燃えるような日差しに背中を焼かれながら、くっきりと刻印されているのは、吊るされた一揃いの骸骨。
溶けずに残った一個の目玉が、未練の音立て転がっていく。長い廊下の端から端へ、二階に起こる不貞の現場、癒されぬ妄念ばかりが駆け巡る。