『幽霊の温もり』
駅の長いエスカレーターの上がり口からその鉄の板に乗り身を任せて上がっていくと、上がり切った先に人影が見えた。これは上りなのにと思いながら、もしや迷っているんだろうと視線を数秒間、手にした携帯電話の画面に送っていたが、そろそろ着くころだと真ん中辺りで再び見上げてみると、その人はまだそこに立っていた。あと10秒もすれば上がり切ってしまうと不審に見ていたとき、その人影はこちらに向かって降りてきた。なんだこれはと思い間もなく突進してきた。私は避けようとしたが、その動く影は私の正面に来た。そしてその動きは宙に浮いている動きに見えた。あっと目を閉じ、身を縮込ませた。しかし、ぶつかった衝撃は何一つなかった。身構えた格好のまま上がり切った私は転びそうになったが、なんとか踏みとどまった。不可解な気持ちでエスカレーターを見下ろすと、その上がり口にすでにその影は立っていた。そして数秒間立っていたかと思うと何事もなかったように、直角に身体を回すと物凄いスピードで右のほうへ移動していった。私はその人影の顔を認識できなかった。しかし、私の身体を通り抜けたとき、何故か懐かしい匂いがした。故郷のそれなのか、また別の懐かしさなのかははっきりしなかった。ただただ、妙に温かさを感じたのだった。幽霊とは常にそういうものなのかとも思った。 (了)