腐った桃は、犬も喰わない
桃井さんがぎょろ目を見上げると、戸惑ったように顔を歪めながらぎょろ目が「サワキ」と素っ気ない声で呟いた。そうして、女へと視線を戻す。女は緊迫した状況に似合わぬ自己紹介モードに半ば放心しているようだった。
「おねーちゃん、名前は?」
「ぇ…?」
「なーまーえー」
強請るような声で桃井さんが言う。悪人面に似合わぬその声音に、女がビクリと肩を震わせる。
「ヒシヌマ、カエデコ」
「かえでこ?」
「植物の楓」
そんな遣り取りを儀式的にしてから、桃井さんはソースせんべいの残りのひとかけらを口の中に放り込んだ。バリバリと奥歯の辺りで咀嚼しながら、ふぅんと曖昧な相槌を返す。
「皇龍組んとこの菱沼組長の娘さん?」
瞬間的に、ぎょろ目の拳がきつく握り締められた。血走った目からは、先ほどのような素直さは感じられない。桃井さんが相変わらずのんびりとした表情でぎょろ目を見つめた。
「御前は知らなくていいことだ」
「御前じゃなくて、桃井って呼んでよリョーちゃん」
「気安く呼ぶな」
「気安く呼ばせてよ。そんで俺のことも気安く呼んで」
桃井さんの主張はめげないというよりもしつこいに近かった。人の領分に桃井さんは容易く踏み込む。それがあまりにも自然で堂々としているものだから、人は暫くの間、桃井さんが土足なのにも気付かない。ぎょろ目は、忌々しそうに奥歯を噛み締めてから、全然似合わないスーツの上着から封筒を取り出して投げた。トランクの中で仰臥したままのキャバ嬢の太腿の上に落ちた封筒を拾い上げて、桃井さんが中を覗き込む。
「前金は半額? 期限は?」
「一週間。女を奪われるな。それさえ守ってくれりゃ残りも気前良く払う」
「うん、わかった。大丈夫だよ」
暢気な口調でそう答えて、桃井さんはキャバ嬢の口にガムテープを貼り直すと、封筒ごとトランクを閉めた。キャバ嬢がトランクの中で、んーんーと呻き声をあげている。その声をかき消すように桃井さんが鼻歌を歌い始める。何だか現実味がないほどに、その姿は能天気だった。
去り際に、扉の前で桃井さんがぎょろ目の頭をもう一度くしゃくしゃに撫でていた。その様子を見て、僕は呆れて果ててしまった。その撫で方に見覚えがあると思ったら、それは桃井さんが犬鍋太郎を撫でるときの手付きと同じだったのだ。ヤクザの下っ端らしきジャンキーに対して、犬と同等の扱いをするだなんて桃井さんは頭が可笑しいんじゃないだろうか。それを後で、当の本人へと言えば、こともなげにこう返された。
「だって、可愛いじゃんアイツ。鉛筆みたいに尖っててさ、人のこと嫌いなふりしてるけど、でも本当は頭撫でてもらうの大好きなんだぜ。優しくされるのも大好き」
「何でそんなことが解るんですか。会ったばかりなのに」
「人付き合いの基本は、解ったつもりになることだよ。理解者になったつもりになんないと、誰のことも解んないまま横を通り過ぎちゃうだけじゃん。そういうの寂しいよね」
そう言って、桃井さんは屋台で買ったタイヤキをもごもごと口に詰め込んだ。その横では、大きなトランクがガタガタと音を立てて引き摺られていた。
作品名:腐った桃は、犬も喰わない 作家名:耳子