腐った桃は、犬も喰わない
「モモちゃんの目から、一回世界を見てみたいもんだよ。よっぽど綺麗な世界が見えてんだろうなぁ」
嘆くような羨むようなその台詞に、桃井さんは一度あははと声をあげて笑った。笑って、それからスッと目を細めた。きっとその表情は僕だけしか見ていなかった。桃井さんは、一瞬酷く冷たい目をした。世界を見下し、蔑むような眼差しだった。背筋に悪寒が走る。僕は、息を呑んだ。桃井さんは僕の視線に気付いたのか、少しだけ首を傾げて笑った。いつも通りの気の抜けた笑みだった。
不意に、沼野が帽子を目深に被った楓子へと、胡乱気な視線を向ける。
「で、こっちの嬢ちゃんは誰よ」
「俺の友達」
「ふぅん」
探るような目付きで、沼野が楓子をじろじろと眺める。楓子は露骨に鼻梁に皺を寄せて、不快感を示した。
「何よ、あたしに何か言いたいわけ?」
「いいやぁ、ただどっかで見たことある顔だなぁって思うわけよ」
「古臭いナンパね。もうちょっと良い台詞思い付いてから話しかけて頂戴」
ツンと言い放って、楓子は鍋太郎と連れ立って先先と歩いて行ってしまう。その後を追い掛けようとした瞬間、肩を掴まれた。骨ごと砕こうとするような力だ。
「おい、手前、ろくでもねぇことしてんじゃねぇだろうな」
ドスの利いた声で沼野が凄む。肩越しにその三白眼を睨み付けながら、ぶよぶよとした掌を肩から叩き落とした。
「自分には何でも知る権利があるみたいな顔しないでくれませんか?」
「知る権利があんだよ。俺は、御前の監視役だからな」
傲慢に言い切る男の横っ面を殴り飛ばしてやりたい。凶暴な衝動が腹の底から込み上げて来る。拳をきつく握り締めた瞬間、するりと反対の掌があたたかい感触に包まれた。桃井さんが僕の手を握っていた。
「大丈夫だよ。沼野っちには面倒はかけないから」
「モモちゃぁん…」
沼野が情けない声をあげる。桃井さんは小首を傾げて、それから朗らかな声で言った。
「俺、知ってるよ。沼野っちも、優しいって」
容易く、安易に、優しいと口に出すこの男は、きっといつか誰かに刺されると僕は思った。誰彼構わず好意を安売りする人間は、きっと長生き出来ない。だけど、桃井さんはそれでも後悔しないんだろう。誰かに刺される時だって、きっとその相手すら優しいと言い続けるのだろう。
そう言って、桃井さんは僕の手を引いて歩き出した。沼野は何処か困ったような、釈然としないような、甘さと苦さが入り交じった表情を浮かべていたけれども、その口から制止の言葉が漏れることはなかった。桃井さんはずんずんと進む。迷いなく、それが正しい道だと信じ切っているかのように。
桃井さんに掴まれた手があたたかかった。万人に等しく与えられるぬくもりだと思った瞬間、僕は彼の手を振り払った。振り返り僕を見詰めて、桃井さんはすこしだけ泣き出しそうな顔で笑った。
作品名:腐った桃は、犬も喰わない 作家名:耳子