バス停
僕はPコートの襟を立て、傘を差してバス停に向かった。
時刻は六時を回ったばかり。
空気を吸うと鼻の奥がツンとする。
人々が徐々に動き出し、職場へ向かう車が道を走る。ぽつりぽつりと家々に明かりが灯ってゆく。眠りから覚めた町のあくびが聞こえるかのようだった。
僕は遠くの高校にバスと電車を乗り継いで通っている。早起きするのにも慣れてしまった。今は、誰にも汚されていない朝の清涼な空気が好ましい。それにバス停では楽しみがあった。
屋根のついたバス停にはやはり住之江(すみのえ)がいた。制服をきちんと着て、いつものようにベンチに座り、文庫本に目を落としている。ページをめくる彼女の白い指先の動きが鮮明に映った。
住之江呉羽(すみのえくれは)。
僕と同じ高校に通う一七歳の少女だった。背中の半ばまで伸ばした髪は黒漆のように艶やかで、伏せ目がちの目は黒曜石のように煌めいている。対照的に肌は白く、そのせいで人に触れたら溶けてしまう春雪のような儚さがあった。
「おはよう、住之江」
「おはよう、坂崎(さかざき)君」
銀細工が震えるとしたら、住之江のような可憐な声を出すのだろう。
住之江は文庫本から顔を上げた。長い黒髪が衣擦れのような音を立てたと感じたのは僕の錯覚だろうか。
僕は距離を意識しながら住之江の隣に座り、息をついた。
吐く息が白い。しかし僕の熱量は世界全体からすれば大した量ではなく、すぐに冷めてしまった。
僕は将来に対して、これという展望はない。なんとなく高校に通い、友達とおしゃべりしている間に卒業してしまうのだろう。その先のことはまだ考えていない。僕の将来は薄靄に包まれ、先を見通すことができなかった。
しかし住之江は違う。
将来は小説家になりたいという大きな夢を持っている。住之江には寸暇を惜しんで本を読むような印象があり、僕は住之江が小説家になる以外の姿を想像することができない。
僕には住之江が眩しい。
「住之江。今日はなにを読んでるの?」
「『橋のない川』よ」
住之江の柔らかい唇から聞いたことのない題名が滑り出した。
僕が本を読むとすれば、夏休みの課題図書くらいのものだ。
しかし住之江が読むのだから面白いのだろう。
興味が湧いた。
「どんな話?」
「被差別部落の話よ。主人公はその村の出身で、いわれない差別に苦しむの。橋のない川という題名は、川によって隔てられた二つの世界を表すのかもね。静かな文章がずっと続くんだけど、読んでいて心がざわつくよう。主人公の代わりに私が叫び出したくなるくらい」
住之江が叫ぶなんて僕には想像できなかった。彼女にも叫び出したくなる思いがあるのだろうか。
いつも学校で孤立している住之江は、必要最低限しか言葉を発しない。例えば、授業中に教師に指名されて答えると言った程度だった。まるで沈黙の誓いを立てた修道女のように頑なで、誰とも交わらず、教室で一人本を読んでいる。
その様子は、強い香気を持つために人を選ぶ百合の花を思わせた。
校内では、住之江は僕とも言葉を交わさない。そのくらい住之江の孤立は徹底している。そんな住之江が一体なにを叫ぶのか興味があった。
住之江はバスを待つ間だけ僕に心を開く。
今も身を乗り出し、身振り手振りを交えながら饒舌に本の感想を語る。時折、長い髪をかきあげる仕草に目を奪われてしまう。黒曜石のように輝く瞳と目を合わせると、鼓動が早まった。
いつからこの時間を貴重に思うようになったのか、僕ははっきりと覚えていない。でも今は、住之江に恋をしていると自覚している。バスが到着しなければいいのに、と馬鹿なことを考えることもあった。
しかし今日に至って、住之江は本の感想を語り終えると、こんなことを言い出す。
「坂崎君とおしゃべりするのもこれで最後ね」
「どういうこと?」
「両親が離婚することになったの。いつかこうなると思っていたけどね。私は母の実家に行くことになったわ」
住之江が叫び出したくなる思いとは、両親のことにだったのだろうか。いつから住之江の両親が不仲だったのか知る由もないが、住之江にとって辛い時間だったに違いない。
そして、住之江はこれからも耐えていかなければならないのだ。
僕は身を切られる思いがした。風の冷たさでさえ、こんなにも痛みを伴うことはない。
自分の恋が終わるとか、そんなことはどうでも良かった。ただ、住之江の力になりたい。住之江の心が叫ぶ思いを受け止めてやりたいと思った。
だから僕は住之江に提案する。
「アドレスを教えてよ。これからも本の感想を聞かせて」
「私、メールは好きじゃないの」
「じゃあ手紙を書くよ。僕も本を読むから感想を手紙で話そう」
僕は必死だった。
年賀状を書くのも億劫な僕だけど、住之江に対してなら何百枚でも手紙を書けそうな気がする。
「……」
住之江は微かな息遣いで笑った。
その笑いがなにを意味するのか僕には分からない。
ただ、住之江の目を見ていると、何故か急に恥ずかしくなった。
バスが到着するまで僕らは無言だった。雨は止む気配を見せず、屋根を規則正しく叩き続ける。その雨音に包まれた僕らは静かに満たされていた。僕は今、春雪に触れているのだろうか。
やがてバスが到着し、僕が立ち上がると、住之江が僕の袖を掴む。
「ねえ。バス、一本遅らせない?」
住之江の瞳は、水に濡れた黒曜石のように光っていて。
僕は橋のない川を渡ろうとしているのかもしれない。
そんな予感があった。