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サラ・ベルナールごっこ

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 たしか、中学2年の夏休み。
 おれは学年でもかなり成績のいいほうで、一学期の最後の週におこなわれた三者面談でも、有名進学校への受験を勧められていた。
 しかし、親や担任の期待が大きくなればなるほど、おれ自身の気持ちは萎えていった。自分がいわゆる頭でっかちな優等生で、勉強以外にとくべつ好きなこともなければ、自慢できるような特技があるわけでもない凡人に過ぎないということに気づきつつあったせいだろう。
 このまま進学校に入って大学に入って会社に入って墓に入って、それでいったいなんになる。そんなことをいうと、笹川は決まって厭味たらしく唇の端をひん曲げた。
 笹川はおれよりもはるかに成績が悪かった。進級を心配するほどでもなく、不良というわけでもないが、なんとなく、ほかの生徒たちと少しちがう位置にいるような、というよりも、周囲の人間を斜めうえから眺めているような奴。つねに小難しい本を広げていて、教科書を机に出しもしないのに、教師の質問に平然と答えてみせたりする。教師からも生徒からも、あまりよくは思われていなかった記憶がある。気味悪がられているのか、いじめられることもなかった。
 共通点といえば、友達が少ないことぐらいしかなかったが、おれたちは不思議と気があった。
 笹川は外面だけは異常によかったので、口うるさいおれの親も、笹川の家に勉強に行くといえば、文句はいわなかった。笹川は理数系はからきしだったが、文系の科目だけは抜きん出ていたので、それらを苦手とするおれの宿題を手伝ってくれることもあったし、実際に、彼と付きあうようになってから、文系の試験の点数が上がった。
 学校の図書室なんてめじゃないほどの蔵書も、笹川家の魅力だった。ニーチェ、カフカ、カミュ。ランボーに出会ったのも笹川の部屋ではなかったか。
 なんの話だったかな。そうだ、中学2年の夏休みだ。
 蝉の鳴き声が姦しい暑い日だった。いつものように笹川の部屋で本棚を漁っていると、笹川がいきなりこういい出した。
「サラ・ベルナールごっこしない?」
 サラ・ベルナールは19世紀の大女優だ。笹川は映画にも詳しかったので、影響を受けたおれもそのぐらいのことは知っていた。
 なんの映画かと聞くと、笹川はいつもの皮肉めいた笑みを浮かべて、ベッドに寝そべった。そしてサラ・ベルナールの奇妙な嗜好について薀蓄を垂れはじめた。
 サラ・ベルナールの密かな趣味は、死体のふりをして遊ぶことだったという。彼女は屋敷に棺を運び込み、自らそこに横たわって、死人を気取った。彼女の命令で、使用人たちはその棺に取りすがって盛大に泣き喚き、それによって彼女は非常な満足感を得たのだそうだ。
 今でこそ、ネクロフィリアという性嗜好のひとつであると納得できるが、そのときは、なぜそんなことをするのか、理解不能だった。同時に、興味が湧いた。笹川の巧妙な語り口も、おれの好奇心を刺激した。
 エアコンが効いて肌寒いぐらいの部屋で、笹川はベッドに仰向けになった。腹のうえで指を組んで目を瞑った。滅多に外に出ないせいで白い肌が、まるで本物の死体のように見えた。
 おれは予め指定されたとおりにまず吃驚した演技をし、ベッドに駆け寄って笹川の腕に触れた。笹川の名前を呼びながら、何度も体を揺すった。もちろん、笹川は返事をせず、びくとも動かない。そのうちおれは不安になってきた。ひょっとすると、本当に笹川は死んでしまったのではないだろうか。なみなみならぬ不安が押し寄せ、悪寒が脊椎を駆け抜けた。
 笹川、もういい。もうやめよう。必死になって訴えると、笹川はぱちりと目を開けた。吸血鬼のように音もなく起き上がると、涙目のおれを見て噴き出した。
 ひとしきり笑ってから、笹川は交代しようといい出した。正直、おれはこの遊びになにか禁忌を犯しているようなうしろめたさを感じて腰が引けていたのだが、同じような気持ちを興奮ととらえているらしい笹川の無邪気な顔を見ていると、臆していると思われるのが悔しくなり、平気な顔をつくってベッドに横たわった。
 おれがしたのと同じ手順で、笹川が死体役のおれの前に跪き、泣き真似をはじめた。なるほど、こちら側に据わってみると、たしかに愉快だった。
 いつ覚醒しようかと頃合いを見計らっているうち、突然笹川の喚き声がやんだ。不審に思って薄目を開けようとしたとき、唇になにかやわらかいものが触れた。
 おれは跳ね起き、渾身の力で笹川を押し退けた。前述のとおり、おれは奥手な優等生だった。当然ながら、キスなんてしたことがなかった。
 羞恥と憤怒が混在したわけのわからない気持ちが湧き上がってきて、おれは思いつく限りの罵詈雑言を口にした。真顔の笹川を突き飛ばして、転げるように笹川の家を出た。
 帰宅してから参考書を忘れたことに気づいたが、取りに戻る気になれなかった。なくしたというと、親は怒り狂った。説教を受けながら、おれは泣きたくなった。なにもかも笹川のせいだと思った。
 笹川の家には二度と行かなかった。学校で顔をあわせても、無視した。笹川のほうから話しかけてくることもなく、他人よりも遠い存在のまま中学を卒業して、おれは進学し、笹川は就職した。
 それから今までのおれの人生は、両親や教師やおれ自身が想像したものと寸分たがわぬものになった。高校に入り、大学に入り、そこそこ安定した食品会社に就職した。結婚はまだだが、おそらくそういうことになるだろうという相手もいる。
 忙しい毎日のなかであの夏の日の記憶が薄れかかっていたある日、笹川から手紙が届いた。厳密には、彼の母親から。
 失血死とのことだった。風呂場で手首を切ったのだ。あっけなく、ありがちだ。笹川らしいと思った。彼は常套手段というものを忌み嫌う反面、憧れてもいた。そのことに気づいたのもやはり、遅すぎたが。
 喪服姿のおれを、笹川の母親は腫れた目で迎え入れた。笹川の部屋は中学の頃とまったく変わっていなかった。本棚の位置からベッドの位置まで、まるで同じだ。一瞬、あの頃にタイムスリップしたような妄想に陥ったほどだ。彼がここに入れたのは、あとにも先にもおれひとりだけだったのだそうだ。おれは優越感と同時に、同情をもおぼえた。このうすら寒い部屋で、二十年近い間、笹川はどんなことを思って時間を喰らったのだろう。
 狭いリヴィング・ルームの畳のうえに布団が敷かれ、笹川が横たわっていた。あのときと同じ白い顔に、おれは語りかけた。
 笹川、もういい。もうやめよう。サラ・ベルナールごっこは終わりだ。
 蝉がやかましい、夏の日の午後。



おわり。