窓っていいな
「窓って、いいな」
彼女が繰り返した。その窓から身を乗り出して、葉を出し始めた桜の木を眺めながら。僕は呆れて、彼女の後ろ姿から手元の本に視線を戻した。
「ねえ、そう思わない?」
「窓なんて、どこにでもあるじゃないか。『いいな』なんていうほどのものでもない」
「同じ窓は一つとしてないよ。そういうところが『いい』んじゃない」
僕は少し考え、彼女の言っていることは、窓から見える景色に同じものはひとつとしてないということだろうと解釈した。
この部屋の窓、隣の部屋の窓から見える景色、下の階から見える景色、この席から見える景色、彼女の場所から見える景色、時間帯によって違う光の射し具合も、そこから見上げた時の空の色も、季節とともに変わる草花や雨の色も、そういったものひとつひとつが彼女にとっては特別なんだろう。
「いろんな景色が見えて、いいよね」
そんなふうに応えてから、ああまた彼女につられてしまったと思った。彼女は「変な子」だった。時々こんな風に変なことを言って、みんなを困惑させて、僕もいつも初めは困惑するのだけど、すぐに彼女の言っていることを理解しようとしてしまう。彼女と一緒に考えてしまう。だから僕は、彼女に目を付けられていた。
強い風が吹き、はためくカーテンを押さえながら彼女がこっちを見ているのに気づき、慌てていつの間にか上げていた視線を下げる。ページの半分ほどを読み飛ばし、親指でぺらりとめくる。
「景色だけじゃなくて、もうひとつ」
聞くな、本に集中しろ、そう自分に言い聞かせながら、文字を目で追っていく。
「窓は、繋いでくれます」
けれど、
「……なにを?」
僕は訊いてしまうのだ。
「世界を」
「意味が分からない」
そしてやっぱり呆れて、このつまらない文庫本を読もうとしながら、次の彼女の言葉を待っている。
「この世界と、あっちの世界を。この小さな部屋と、外の大きな、全世界に、空の向こうに広がってる宇宙を繋いでる、小さな四角い枠」
「ドアじゃだめなのか」
「閉めても開いても、透明で向こう側が見えるのがいいんじゃない」
「なるほどね」
「そう考えると、わくわくしない? たった数メートル四方の四角い枠。そこから少しだけ見えている向こうの世界。ここから飛び出したら、どんな世界が待っているんだろうって」
少しだけ見えている世界は、その情報から想像する世界と違うのだろうか? 例えば窓から雨模様が見えたなら、その向こうにあるのは雨の世界で、そこに行ったら濡れてしまうだけではないのだろうか?
「それはどういう……」
と疑問を口にしながら顔を上げると、彼女の姿がなかった。
開け放された窓から変わらない調子で吹き込む風だけが、やわらかな音を立てている。
端に寄せられたカーテンがゆらゆらと踊った。いつだかどこかで見た、布をかぶせて人が消える手品のようだと思った。しかし、
――『ここから飛び出したら、どんな世界が待っているんだろう』
その声が蘇り、思わず立ち上がった。
慌てて窓際に駆け寄り、下に目をやると、すぐそこに彼女の頭のてっぺんがあった。そこでようやく僕は、この部屋にベランダがあったことを思い出す。
「どうですか、こちらの世界は」
彼女が僕の顔を見上げていたずらっぽく歯を見せる。視線と視線がもろにぶつかり、僕はかっと顔が熱くなる。背中でカーテンがばたばたと激しい音を立て、そして、目の前に桜色が飛び込んできた。
「……綺麗だな」
悔しいけれど、そう素直に答える。目の前に広がる桜はまさに満開だった。目で追えないほどの花びらが、音も立てずにずいぶん長く、長く、降り続いていた。
しばらく先ほどの彼女のように身を乗り出して眺めていたが、やはり彼女の真似をして、目の前の窓枠を飛び越えた。
「行儀が悪い、そこにドアがあるでしょ」
「ドアじゃだめなんだ。窓から飛び出さないといけないんだろ?」
彼女の隣に腰を下ろした。桜を眺めながら、また彼女にしてやられたな、と僕は思った。
しかしまあ、少しだけ見えていた窓の向こう、それは案外に心地よくて、こんな世界も悪くないな、とも。