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華鏡(はなかがみ)~鎌倉のおんなたち・時代ロマン小説連作集~

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 政子は思案顔で退出する甥を見送った。

―嫌がる御台さまを御所さまが追いかけ回している。
 その実に将軍にとって不名誉な噂は今や御所中にひろまりつつある。
 それがけして頼経のためにはならないと理解しつつも、千種はどうしても頼経の再三の招きを受けることができないでいた。
 毎日、どこに頼経が現れるか知れたものではない。庭を散策すれば、樹の影に隠れているし、これでは以前のように町に出かけられもしない。町中では、千種はあまりにも無防備になりすぎる。
 そう考えて、つくづく哀しい。以前は町に出ることがあんなにも愉しみだったのに、この差は何ということだろう。あの男が頼経、将軍その人だと知る前は、町に行けばどこかで彼(か)のひとと逢えるのではないかとひそかに期待に胸を高鳴らせていたものを。
 今は狭い御所内でいつ頼経に出くわさないかと怯えたように暮らしている有様だ。
 千種は今も頼経を嫌いではない。―というより、その気持ちに何一つ変わりなく好きだ。初夜に一方的に辱めのような行為を受けた今でさえ、恋い慕っている。
 あの夜、頼経は人が変わったように千種の身体ばかり求めてきた。初夜に怯える千種の心を思いやってくれることは最後までなかった。
 あの夜の頼経と町で愉しいひとときを過ごしたあのひとは、あまりに違いすぎる。本当なら、恋い慕っていた男が他ならぬ良人だと知って、天にも昇るばかりの歓びを感じているはずだろう。なのに、千種はまるで別人のような貌を持つ一人の男に翻弄されている。
 どちらの彼が本当の頼経なのか。どちらを信じれば良いのか。それで、これからの千種の生き方も変わってくるはずだ。
 千種は小さな溜息をつき、廊下に座った。ここは竹御所、つまり御台所の御殿の一角である。普段は使っていない空き部屋ばかりが集まるところだけれど、ここから眺める藤の花の眺めが見事だと今朝、茜が教えてくれたのだ。
 よもや茜にそう言うようにと命じたのが政子で、同じく頼経もまた政子から藤見を勧められているとは考えてもみなかった。
 幾ら何でも、こんな場所にまで頼経が来ることはないだろう。千種は安堵していた。廊下から臨める庭には右端に見事な藤が植わっている。
 紫のたっぷりとした花房が垂れ、芳しい香りが漂ってくるようだ。蜜蜂が騒がしい羽音を立てて群がっている。   
 何とも長閑な眺めではないか。思えば身代わり姫となってからというもの、慣れない環境で別人として過ごす中に、心から寛ぐということも忘れてしまった。こんな風に人の眼を気にせずにのんびりと過ごすこともなかった。
 ただ、お忍びで外出したときだけ―頼経と過ごしたあのわずかな日々だけが千種にとっては意に添わぬ日々の中、心安らぐひときだった。
―もう、あんな風に一緒に笑ったりすることはできないのかしら。  
 そう思うと、何かやり切れなくて切ない。
 また涙が滲んできた。どうしてか、身代わり姫となって、以前と性格まで違ったような気がする。千種のときは、こんなにすぐに泣くような弱虫ではなかった。なのに、今は涙もろくなってしまって、何かあればすぐに泣いてしまう。
―私はそなたの笑顔が好きなのだ。頼むから、笑ってくれ。
 またしても頼経の優しい声が耳奥で甦り、本当に涙がほろりと零れた。人差し指で涙をぬぐった時、背後から抱きしめられた。
「見つけた」
 あまりのことに、千種はか細い悲鳴を上げた。千種は怖々と振り向いた。訊ねなくても、声の主は判っている。
「ご、御所さま?」
「紫が逃げ回ってばかりいるから、私は捕まえられなくて大変だ」
 耳許で熱い吐息混じりに囁かれ、背筋が粟立つ。こんな至近距離にいると、どうしてもあの夜を思い出してしまう。
「紫はそんなに私のことが嫌い?」
「―」
 千種はうなだれた。いっそのこと嫌いになれたら、せいせいするだろう。今の頼経は千種を?紫?と呼ぶ。頼経にすれば、身分を知られたくないために偽名を使ったのだと思っていることだろう。千種の今の名前は?紫?なのだから、彼がそう呼ぶのは当然ではあった。
 やはり、大好きな男が?千種?と呼んでくれないのは淋しい。
 だが、千種が黙り込んでいるのを頼経は勘違いしたらしい。
「紫はそこまで私を嫌うのか」
 頼経はしばらく呟くと、背後から抱きしめる力をいっそう強めた。
「私はそれでも紫を諦められない。たとえ女々しい男だと思われたとしても、そなたに余計に嫌われたとしても、私はそなたが好きだ」
 囁き、更に千種をギュッと抱きしめてくる。
「そなたがあくまでも私を拒むというのなら、私は将軍という権力で紫を自分のものにする。政には何の力もないけれど、欲しい女を手に入れるくらいの力は私にだってあるんだ」
 身の危険が迫っているときだというのに、最後の科白には胸をつかれた。摂関家から迎えられた傀儡、お飾りの将軍だという皆の陰口を頼経が知っているのは明らかだった。
―鎌倉どのとは名ばかり、今の将軍家は北条と尼御台の操り人形にすぎぬ。
 それが大方の見方だったし、哀しいことに事実であった。
 そんなことを考えている中に千種は易々と抱きかかえられた。頼経は手近の部屋の扉を開いた。千種を抱き上げて部屋に運び、ぞんざいに投げ落とす。今日もあの夜と同じ、頼経には千種を労る気持ちは微塵もないようだ。
 絶望が千種の胸をどす黒く染めた。
 私は今度こそ、この方を嫌いになるかもしれない。
 千種を空き部屋に引き入れた頼経はまた元どおりに引き戸を閉めた。ここで彼が何をするつもりなのかは明らかだ。
恐らく、これが最後の機会になるだろうと思った。この言葉が想いが届かなければ、頼経への想いもこれで断ち切られる。
 仰向けになった千種の上にすかさず頼経が覆い被さってきた。のしかかってきた男は怖いほどに迫力がある。
 射貫くように見つめてくる双眸には、切迫したような光が閃いていた。彼がいっそう貌を近づけてくる。互いの呼吸さえ聞こえるほどの至近距離に迫っていた。
 それでも今日、千種は彼から眼を逸らそうとしなかった。真下から彼の視線をしっかりと捉えた。最後に自分の気持ちだけは確かに伝えたい。
「あなたにはふさわしい人が他にいます」
 そのひと言は意表をついたらしく、頼経の眼からほんの一瞬、思いつめたような烈しさが消えた。
「それは―どういうことだ?」
 千種は彼と視線を合わせつつ、ひと言ひと言はっきりと告げた。今日こそは己れの想いを自分の言葉で間違いなく彼に伝えたい、その一心で。
「考えてもみて下さい。私はあなたの妻という立場にありますが、既に三十路を過ぎています。あなたの立場上、源家の娘である私を離縁することはできないのは判っています。でも、いつかあなたご自身が由比ヶ浜で語っていたように、私という妻がいても、頼経さまにふさわしい若い姫君をお側に迎えることは可能でしょう。御所さまはまだ十六歳になられたばかり、私は頼経さまが頼経さまにお似合いの姫君とこそ、これからの長い人生という日々を過ごされるべきだと存じます」
 頼経の端正な顔に見る間に怒気が閃いた。