秋の妖精
今年はずいぶんと秋が遅いなぁ、と思ってはいたのが、不意に目の前でひらりと舞った鮮やかなべに色のモミジの葉に目を奪われた。
ひらり、ひらひらと、右へ左へ。いまだ僅かに夏の名残りを残した湿っぽい風に煽られて宙を舞う。
手のをばせば届くところでくるりと舞ったそれを反射的に掴んでしまった。まだやわらかいそれは枯れ葉のようには乾いておらず、ぐにゃりと形を変えて手のひらに馴染んで収まる。
並木道を見上げれば、葉の色はまばらに色を変えていた。記憶の中では青々とした夏の色をしていたはずだが、いつのまにか順調に季節を跨いでいたようだった。
「もう11月だもんなあ」
どれだけ夏が長くても、冬の足音は確実に聞こえ始めるころ合いだ。
緑に黄、赤とばらばらの葉をつけた木々は、残念ながらお世辞にも綺麗とは言い難い妙な色の群集だった。美しい秋の景色は、今年は見られそうもない。
ならばこのモミジの葉はなかなかに貴重な代物なのではないか、と気付いて視線を下げる。握りしめた手のひらをぱっと広げた。
途端、ぼくは自分の目を疑った。
ひとだ。小さなひとが手の中にいた。
「う、うわ、うわわ」
真っ赤なワンピースを着た少女が。小さな、小さすぎる少女がぼくの手のひらの中で目を回していたのだった。
これはなんだと仰け反り、慌てて投げ出してしまいそうになったが、皮膚からじわりと伝わる生物の熱に躊躇してしまう。身動きがとれないまま、ぼくは真っ白になった頭のままただその少女を凝視するしかなかった。
生まれてこの方16年、夢見がちな子供の時期は卒業したのだと思っていた自身の常識を覆す存在に、根底から揺るがされる思いを抱えていると、不意に少女はまぶたを震わせた。
「んん、……んっ!?」
ぱかりと開けられた瞳は、赤と金が混ざる複雑な色合いをしていた。夕焼けを閉じ込めた宝石のように輝いた目が、ぐるりとこちらへと向けられた。瞬間。
「あああああああああっ」
「えええええ!?」
絶叫されてぼくは再度驚いた。いや、少女も驚いたからこその叫び声だったのだろうが、こっちだって十分驚いた。それも二度目だ。
ぼくは悪くないぞ、と早鐘を打つ心臓を抑えていると、少女はぼくの顔を凝視したままびしりと石のように固まってしまった。まるで今にも死にそうな顔をしていて憐れだったが、大きく開かれたままの口がなんだか間抜けに見えた。
小さな唇がふるふると震えたかと覚えば「人間……」と、まるでこの世の終わりだと言わんばかりに重く呟かれた。確認するような言葉に、ぼくは悩みながら唸った。
「……やっぱりきみ、人間じゃないの」
「あなたたちとは違うので、そうなりますね。妖怪でも妖精でも、好きに呼んだらいいんじゃないですか。わたしたちはわたしたちでしかないのに、いつだって勝手に名前をつけるのは人間の悪い癖ですね」
「えーと、妖怪なの?」
「知りません。あなたたちが勝手に定義してるだけでしょう。わたしたちは、それを少しだけ参考にさせてもらっているだけです」
少女は居心地悪そうに俯くと、ワンピースのスカートの端を握り締めた。表情はかたく、警戒するように全身が強張っている。なにをそんなに気にしているのだろう、とぼくは少しばかり冷静になった頭で考えて首を傾げた。
ひゅ、と鋭い風が足元を過ぎ去る。冬の気配を感じた。
足元に意識をやっていると、少女は沈黙に耐えかねたのか睨みつけるように視線を向けて口を開いた。
「どこに連れていくんですか。わたしたちの仲間は、いつも人間に見つかるとひどいことされます。あなたは、わたしをどうするつもりなんですか」
疑うようなまなざしに、そんなことを言われても……、と困ってしまう。どうするつもりもなかった、というか、どうしたらいいのかすらわからない状況だ。そもそも自分は、ただ落ちてきたモミジの葉を掴んだだけのつもりなのだ。
結局、この少女はなんなのだろうか。
少女の口ぶりから、仲間がいるのだろう。それも人間とは別の。そして少女たちが言う人間たちは、少女たちのことを妖怪や妖精と呼んでいたらしい。ということは、少女はモミジの妖精とかだろうか。
真剣そのものの少女の視線を受けながら、自分も真面目にそんなことを考えてしまった。ぼくの思考もずいぶんとメルヘンなものに傾いてきたらしい。思わずおかしくなってきてしまった。
「どうもしないよ」
笑いながら言えば、疑わしそうな目つきを向けられる。まあ、そりゃあそうだろうけど。
「というか、きみは何をしてたの?」
「わたしは、この木で寝ていただけです。もうすぐ寒くなるので、そろそろ土の中で眠ろうかと思って、下に降りてきたんですが……」
言いながら、困ったように眉を下げながら目線をぼくの足元へと向けた。
レンガを敷き詰めたような道を見て、そう言えば、去年の今頃はまだここは舗装されていなくて土のままであったことを思い出す。春ごろに、道を舗装したのだった。なるほど、とぼくは納得した。同時に、この子は本当に妖精なのかもしれないな、と気付く。雪解けのころあいに、少女はまた地面から出て木の上にのぼるのだろう。
「うん、わかったよ」
ぼくは頷くと、少女を手にしたまま通りの先にある公園へと向かった。遊具なんてほとんどない、小さな児童公園だったが、敷地をぐるりと囲むようにモミジの木が植えられていた。砂場近くの地面でしゃがみこむと、少女を乗せた手の地面へと近づける。
「また来年会えたら会おうね」
少女はひどく不思議そうな顔をしていたが、やがてにこりと花が咲くように笑うと頭をさげた。
「人間さん、ありがとう。……人間は、こう言うんですよね?」
「うん。そうだね。でも、ぼくは人間ではあるけど、伸一って名前もあるから、そっちのほうが嬉しいなあ」
「シンイチ、ですか?人間は本当に名前をつけるのが好きですね」
細い指を口元に当てて、少女は何度かぼくの名前を口ずさんだ。やがてしっくりきたのか、少女はふたたび笑顔を浮かべて顔をあげる。「シンイチ、ありがとう」少女の顔の大きさはぼくの人差し指の先ほどしかなかったが、やわらかく微笑んだ表情はとてもかわいくて印象に残った。
ワンピースの裾を翻して、くるりと回りながらぼくの手の上から少女は離れた。同時に、姿はあざやかなモミジの葉へと姿を戻してしまった。
地面に落ちる瞬間、溶けるようにしてその葉は消えた。その場にはモミジの葉はなく、元々あった小石だけが転がっている。夢を見ていたかのように、なにも残っていない。
ぼくは立ち上がると、空を見上げる。秋晴れのよい天気だ。
「また来年な、モミジ」
そう言って背を向ける。『すぐに名前をつけるのだから、困ったものですね』鈴のような笑い声とともにそんな声が聞こえたが、振りかえっても誰もいなかった。
夏の気配を押しだすかのように冷えた風が首元を撫でていったが、少女のかわいらしい笑顔を思い出すだけで胸中があたたかくなる。今年の冬は、簡単に乗り切れそうな気がした。