『 悩み 』
私は足を止め眉をひそめた。今一瞬のことだが何か覚えのある匂いが鼻先を掠めた様な気がして、地面から電柱伝いに目線を上げると、そこは見覚えのない住所であった。
此の道を歩き続けると何処へ行くのかも分からずに、歩き続けるわけにはいかない。引き返そうと思い振り向こうとした時、犬の鳴き声がした。見ると前方に秋田犬らしき大きさの犬が足を揃えて座り込んでおり、いつの間にかそこは犬に占領された道となっているのであった。わん、と犬は満足げに鳴き、歩き出した。ついていってはいけない、と私の本能は言ったが、私は犬の後ろについて歩いた。一度、角を曲がったきり、真っ直ぐな道を三十分程も歩いた頃であろうか、目の前に竹藪が現れた。
昼間だというのに薄暗く、特に人影も見えないが果たして先程の犬は。何時しか目の前を歩いていた犬は姿を消し、確かにそこに道はある様ではあるが足を踏み入れる必要はなく、私は躊躇した。持ち主の地主に怒鳴りつけられるのではないかという考えが浮かび、私は微笑んだ。こんな日があっても良いかも知れない。
竹藪の中は涼しく、空気は軽かった。奥へ奥へ進むと、黒い竹が三本現れた。根本から、見上げる先まで炭の様に真っ黒い竹に、私は手を伸ばした。煤が手に付き私の手は黒くなったが、別段何がどうということもない。その時、ウーウーカンカンという消防車を思わせる音が聞こえた。すぐそこから突然、その音は発し、止まった。私は心の中がひやりと寒くなり、もう一度、竹を見つめた。わん、とどこからか鳴き声がした。
私は走り出した、何処までも、子供の頃の様に。後ろは振り向かなかった。
しばらくして、大火事が起きた。私は是までの人生、地震と雷と親父の他に、災難を知らない。
~ 終 ~