月とお姫様
今夜の物語りは、とある国の、月を取ってくれと言ったお姫様の話だ。
物語を知っているお客様方には自分勝手な我が儘なお姫様と見えたかもしれないがね、ここだけの話、彼女は実は、魔法使いに恋をしていた。
恋とは古今東西変わらずに、人を最大限に我が儘にさせる手段の一つだ。
お姫様は実行不可能そうな命令を下すことで魔法使いの気持ちを図っていたんだよ。
そしてそれが叶えられる度に、安堵と不安という二つの感情に苛まれていたんだ。
だからというわけではないが、お人よしと人に称されるその魔法使いはいつだって真剣だ。
これもここだけの秘密だよ。実は魔法使いもお姫様に盲目的な恋をしていたんだ。
分かるかい? お姫様とお姫様付きとは言え、ただの一介の魔法使いだ。この身分差が、二人の恋を邪魔していたのさ。
だから叶えられそうにない願いを口にされたとき、魔法使いはそれを口にしたお姫様と同じくらい不安でドキドキした。
月なんて手に入りそうにないもんなぁ。
魔法使いはそりゃあ悩みに悩んだよ。周りの人からはいい加減放っておきなさいよなんて忠告をもらったが、たった一人の恋する相手の願いだ。魔法使いだって、はいそうですねと諦める訳にはいかない。
もちろんその頃、お姫様だって不安でいっぱいだ。今度こそあの優しい魔法使いは愛想を尽かしてしまったかもしれない。そう考えるだけで胸が張り裂けそうになる。
何とか方法を捜し出そうと駆けずり回る魔法使いに、自分の言葉を撤回する勇気も持てなかった可哀想なお姫様。
時間だけが刻々と過ぎて行く。
しかも二人の悲劇はまだ終わらないってな寸法でね。
お姫様には縁談が持ち上がったんだ。これはと父王どころか誰もが認めざるを得なかった、お姫様に相応しい相手、隣の国の王子様だよ。
もちろんお姫様はそんな結婚は嫌だったさ。
だがね、それを父王に言うには、お姫様はちょっとばかり頭が良すぎた。この結婚を蹴ったら自分の国が危なくなるかもしれないって事を見抜いていたんだよ。何せ王子様のいる隣の国は、武力も守りも手堅い大きな国だったからね。
だから月が欲しいという願いは、お姫様にとっても魔法使いにとっても最後のお願いであり、儚い恋の終わりを意味する物となっちまったんだ。
いやはや、なんとも切ないねぇ。
結婚式の日はどんどん近づいてくる。なのに二人とも何にもできない。
お姫様が欲しがったあの月を手に入れてくることなんて、まだまだできてない。
魔法使いは焦ったね。何せ深く恋する相手のことだ。高根の花と分かっているからこそ、お姫様の幸せを願う心は嘘いつわりないものだった。できることならば、せめて御祝儀代わりに月をその手に渡して、お姫様に喜びのうちに幸せな花嫁になってもらいたいじゃあないか。
そしてある日、良く晴れた城下町の一軒の店屋を通りかかったとき、ようやく代わりの物を見つけたのさ。
まるで天から授けられたかのように、たまたま見かけた、お天道さんの光をきらきら弾く銀のブリキだ。
これならば月のない夜、一夜くらいはお姫様の心を満たすことができる。
魔法使いはこれに賭けた。一世一代の大博打だ。
頃はぎりぎり、お姫様の結婚式の前日。少々雲が薄いのが気になるが、なんとかお月さんを隠してくれそうな曇り日和。
魔法使いは恭しく、まあるく切ったブリキをお姫様に差し出した。
姫、月を取って参りました。
そんなナイトのような台詞付きで。
今は昔、明かりの少なかった群青色の夜のこと。ブリキの月は部屋のランプの光を弾いて、本物のように金色に輝いて見える。
お姫様は大事そうにその月を手に取り、ふわりと嬉しげに表情を緩めた。
嗚呼、それこそが魔法使いのたった一つの月の光!
魔法使いは内心有頂天だ。お姫様の笑顔が眩しすぎてめまいがする。
しかし偶然に左右された幸運な時間なんてのは、あっと言う間に過ぎる物でね。
魔法使いがしみじみ幸せを噛み締めながら安堵の息をついたとき、運命の悪戯か、雲が晴れてお月さんが顔を出しちまったのさ。
焦る魔法使いに、ブリキの月を持ったまま窓の外を見たお姫様。
そしてここであの印象的でエスプリにとんだ台詞が出てくるってな訳だぁね。
「月はいくつあったって良いものよ」
お客様方はお分かりだろうか。
お姫様が何故そう言ったのか。
お姫様は月のように遠い、魔法使いの心が欲しかったんだ。かけらでも、偽物でも、とにかく欲しかった。
だから魔法使いが苦心の末に考えついたブリキの月は、彼女の全ての願いの象徴だったんだ。
今はもう隠す事なく顔の全容を見せているお月さんの下、周囲どころか相手にも言えない恋をしている二人の視線が絡み合って、魅かれ合う。
あと一瞬、そのまま絡み合っていれば。もしかしたら二人は相手の思いを読み取ったかもしれない。ほんの数秒、ささやかな風が通り過ぎる程度の時間、それだけで良かったのになぁ。
なのにやっぱり身分差が二人の邪魔をしたんだろうねぇ。
待ったを掛けたのは、魔法使いの視界に忍び込んできた、お姫様の指に燦然と輝く指輪と、部屋の隅に掛けられた花嫁衣装の白いドレスだった。
ほどけた視線はもう絡むことはなかったよ。
魔法使いは恭しく頭を下げて部屋を出て行く。
いくらお姫様付きの魔法使いとはいえ、夜中に、しかも結婚を控えたレディの部屋にいつまでもいる訳にはいかないからね。
お姫様はドアに背を向けたまま、ただブリキの月を持って立っていた。
愛しい人の残した、自分だけが知っている恋の証を持って、色んな思いの詰まったこぼれそうな涙を堪えつつ、いつまでもいつまでも立っていた。
それからどうなったか。皆様想像できるかね?
お姫様はもちろん結婚したさ。ブリキの月という淡い恋の印を抱いたままの、偽物の笑顔を振り撒きつつ、ではあったがね。結婚式はつつがなくすんだよ。
可哀想なくらい頭の良いお姫様のことだ。家族のため、国民のため、良い王妃となったことだろう。
語られないのはもう一人、魔法使いの方だ。
お姫様の結婚式にあわせて暇をもらった、もはやお姫様付きではなくなった魔法使いの手元に残ったのは、月を切り抜いたブリキの残りだった。
ぽっかり空いた心の穴をそのまま形にしたようなブリキは、それでもお姫様が喜んでくれた証拠の品でもあった。
捨てるに捨てられないってぇのは恐らくはこんな物のことをいうんだろうねぇ。
魔法使いは、整えた旅支度を一度解いて、結局それをカバンに入れた。永遠に一緒になることは叶わない恋心を引きずることに決めたのさ。
その決意がお姫様と同じものであることも知らないで。
あてどない長い旅。だがね、魔法使いがどこを旅したかなんて事は、結局誰にも分からないことだったそうだよ。
さて、長々語らせてもらったが、この物語はこれでおしまいだ。
ご拝聴ありがとさん、お客様方。ああ、お代はこの帽子に入れておくんなさい。
明日の夜、月が昇る頃にはまた違う話をいたしましょうとも。