奇譚回路
この世界は三つに分かれている。この世とあの世、そして挟間の世だ。狭間の世に住むのは人ならざるが、されど生きた者「妖かし」達。
敬愛する師にそう教えられた物売りの男が初めてその言葉を信じたのは彼が十四の時だった。それまではその言葉を御伽噺だと思っていたのだ。果てぬ好奇心はかの世界に衝撃を受けた。
「川で溺れた俺を救ってくれたのは一匹の龍だった。そいつに狭間の世界へ連れて来られたときには夢か幻か、竜宮城につれられた浦島太郎の気分だったね」
あの時の感動は今でも忘れない。彼は酒を煽り、無精髭を撫で付けながら語った。
「その話は会う度に聞いている。もう耳にタコが出来そうだ」
先程から黙ってその話を聞いていたのは、男の向かいに座り麦茶を手にした檜皮色の着流しの青年。銀色の髪に碧色の瞳をしており、額には人に在らざる角が二つ生えていた。いわゆる「鬼」と呼ばれる存在だ。
鬼は不自然に右目だけを長い前髪で隠しており、開かれた方の目で物売りを睨め付けた。
「新良(しんら)。用がないなら帰るよ。私も暇じゃあないんだ」
奢られたのはたかが麦茶一杯。それでいつまでも彼の与太話に付き合う義理も無い。そう言ってやれば、新良と呼ばれた男は癖っ毛の頭を掻き「まあまあ」と鬼を宥める。
ここ、挟間の世は常に薄暗い妖かし達の住処。そこには町が存在する。賭場、飲み屋、湯屋等、人の世界と大差無い。
物売りと鬼は今その一画、露天の飲み屋で肴を片手に飲み交わしていた。と言っても鬼の方は下戸らしく、素面な上に肴の進みも余りよろしくない。それでもこうして新良と呼ばれる人間に付き合っているのは訳がある。それは彼が卓の脇に置いた木製の荷箱にあった。
「まあ。そんな急くなよ、ハガクレ。アンタが欲しがっていたものを持ってきたんだ」
物売りはしじら織りの着物を翻し、商売道具である荷箱の中をがさごそと漁る。そこから取り出したのは小さな香炉だった。真鍮に蛙が彫金されたもの。途端、ハガクレと呼ばれた鬼は目を少年のように輝かせる。その顔を見て新良は呆れの声を漏らした。
「アンタも物好きだねェ。人間の道具が好きだなんて」
中古なのだろう、そこから漂うのは白檀の匂い。差し出された香炉を受け取ったハガクレは嬉しげに笑った。
「ああ、なんとでも言えばいい。私の趣味だ」
愛しむように様々な角度から眺めて目を細める。新良から見れば変哲のない香炉だ。何がそんなに面白いのか、理解できず彼は頬杖を付いて溜息を吐いた。
暫くして満足したのか、香炉を卓に置いたハガクレは徐に懐を探り一枚の折り畳まれた懐紙を取り出す。彼はそれを卓に柔らかく置き、ついと新良へ差し出した。
「約束通り」
現し世の流れに揺られ、通貨の価値が定まらないこの世界。貴重なものの遣り取りは物々交換が常だ。
新良は先程のハガクレ同様、目を輝かせて懐紙を受け取る。慎重に畳まれたそれを開けば中から一枚の鱗が姿を現した。七色に輝く、大きな鱗。このような鱗を持つ魚は人の世で見たことが無い。
「こりゃマジもんだな」
「当然。人の世の好事家とはわけが違う」
それは本物の龍の鱗だった。まるで薄氷のような軽さと透明度。だが、固く鋭い。人の世に居るだけでは凡そ手に入らない希少品だ。
「良く手に入ったな」
丁寧に包み直し、荷箱にそれを収納して新良が感嘆の声を上げる。対しハガクレは事も無げに「顔が広いからね」と言ってのけた。
「君の方こそ良くこの香炉が手に入ったね。半ば諦めかけていた」
「ああ、どれも陶器のものばかりでな。真鍮のものでその大きさを探すのは少々骨が折れた」
ハガクレは住処を持たぬ旅の鬼。彼の所望は大抵壊れにくい物であり、香炉に関しては旅路中何かの拍子に割れてしまうのでは悲しいので陶器以外のものが欲しいと言われていたのだ。陶器以外、それでいて旅の邪魔にならぬ大きさの物。絵付けがされており、できれば生き物の絵が好ましい。注文は多かったが物々交換の品に希少価値の高い龍の鱗を提示されては致し方ない。新良は古物商が現れたと聞く度に足を運び、何度も品を見定めて漸くハガクレのお眼鏡に適うものを見つけてきたのだった。
「君の苦労はわかっているつもりだよ」
「そうなら有難いんだけど」
酒を呷り、新良が安堵の溜息を吐く。同じようにハガクレも麦茶を飲み込み一息を吐いた。
さて、人の世で使われていたこの香炉。己以外にも人の道具に興味を持つ者は尽きず、良くない輩に目を付けられる前に仕舞おうとハガクレは卓に立てかけてあった旅道具に手を伸ばす。そこにあるのは赤い番傘と麻袋。たった二つの荷物だった。
「その番傘、まだ持ってるのか」
新良が懐かしむように目を細める。ハガクレは頷き柄を掴み上げ、目線の高さまで持ち上げるとそこを少々強い力で捻った。かちりと音がして傘の柄に隙間ができる。間からは鋭い白刃が煌めいた。仕込み刀だ。
「アンタからそれを譲ってくれと言われた時は、鬼が何を言ってるんだと思ったもんだよ」
人間からすれば鬼は恐ろしい妖怪。それが護身のためにもその傘を譲ってくれと声をかけてくるなど、当時は思いもよらなかった。
「鬼とは言え、妖かしの世ではたかが一匹の妖怪。他の妖怪に襲われては一溜まりもない」
とはハガクレの言葉で、新良はその時も希少品と引き換えに傘を譲ったのだった。ただ、その後暫くは新良自身が丸腰となりざるを得なく、随分肝の冷える思いもした。それは自身の教訓とし、ハガクレの知る所ではないが。
「さて、用事は済んだ。私は宿に戻るとしよう」
宿に戻って手に入れたばかりの香炉を思う存分に愛でたいのだ。ここに居る理由もなくなれば一刻も早く立ち去り、一人になりたい。
だが、新良はそれを察しながらもハガクレへ座るよう促した。
「まぁまぁ。折角久々に会ったんだ。もう少し話をしようじゃねえか」
挟間の世に興味を持つ新良にとってはハガクレの話す奇譚も十分に欲を満たすものだ。ハガクレは旅をする妖かし。彼の持つ奇譚はそこらに留まる妖かし達よりも多く、まるでご馳走だった。
「話? 止してくれ。私がいくら旅鬼と言ってもそんな毎回新鮮なネタなど持っていないよ」
ハガクレが面倒くさそうに頭を振って拒否をする。だが、逃してたまるかと言わんばかりに新良も食いつく。
「有るだろう。アンタが新鮮だと思っていなくても俺には斬新だと思える話」
「例えば? 子供の頃川で溺れ、死にかけで此処へ来た結果挟間の世に自由に出入りができるようになってしまった人間の話とか?」
「それは俺の話だろう」
そうじゃなくて、もっと最近の話で! とせっつけばハガクレもようやく腰を落ち着ける。だがまだ話す気配は無い。
新良が不審そうに目を向けると、ハガクレは店の壁に貼り付けられた手書きのメニューを指した。「さばみそ」「里芋煮」「ほっけ焼き」など庶民的な品書きの横に一つ「すとろべりい盛り」と言う珍妙な名の札。
「人の世の中でも珍しい、『異国』と呼ばれる国の食べ物らしい」
敬愛する師にそう教えられた物売りの男が初めてその言葉を信じたのは彼が十四の時だった。それまではその言葉を御伽噺だと思っていたのだ。果てぬ好奇心はかの世界に衝撃を受けた。
「川で溺れた俺を救ってくれたのは一匹の龍だった。そいつに狭間の世界へ連れて来られたときには夢か幻か、竜宮城につれられた浦島太郎の気分だったね」
あの時の感動は今でも忘れない。彼は酒を煽り、無精髭を撫で付けながら語った。
「その話は会う度に聞いている。もう耳にタコが出来そうだ」
先程から黙ってその話を聞いていたのは、男の向かいに座り麦茶を手にした檜皮色の着流しの青年。銀色の髪に碧色の瞳をしており、額には人に在らざる角が二つ生えていた。いわゆる「鬼」と呼ばれる存在だ。
鬼は不自然に右目だけを長い前髪で隠しており、開かれた方の目で物売りを睨め付けた。
「新良(しんら)。用がないなら帰るよ。私も暇じゃあないんだ」
奢られたのはたかが麦茶一杯。それでいつまでも彼の与太話に付き合う義理も無い。そう言ってやれば、新良と呼ばれた男は癖っ毛の頭を掻き「まあまあ」と鬼を宥める。
ここ、挟間の世は常に薄暗い妖かし達の住処。そこには町が存在する。賭場、飲み屋、湯屋等、人の世界と大差無い。
物売りと鬼は今その一画、露天の飲み屋で肴を片手に飲み交わしていた。と言っても鬼の方は下戸らしく、素面な上に肴の進みも余りよろしくない。それでもこうして新良と呼ばれる人間に付き合っているのは訳がある。それは彼が卓の脇に置いた木製の荷箱にあった。
「まあ。そんな急くなよ、ハガクレ。アンタが欲しがっていたものを持ってきたんだ」
物売りはしじら織りの着物を翻し、商売道具である荷箱の中をがさごそと漁る。そこから取り出したのは小さな香炉だった。真鍮に蛙が彫金されたもの。途端、ハガクレと呼ばれた鬼は目を少年のように輝かせる。その顔を見て新良は呆れの声を漏らした。
「アンタも物好きだねェ。人間の道具が好きだなんて」
中古なのだろう、そこから漂うのは白檀の匂い。差し出された香炉を受け取ったハガクレは嬉しげに笑った。
「ああ、なんとでも言えばいい。私の趣味だ」
愛しむように様々な角度から眺めて目を細める。新良から見れば変哲のない香炉だ。何がそんなに面白いのか、理解できず彼は頬杖を付いて溜息を吐いた。
暫くして満足したのか、香炉を卓に置いたハガクレは徐に懐を探り一枚の折り畳まれた懐紙を取り出す。彼はそれを卓に柔らかく置き、ついと新良へ差し出した。
「約束通り」
現し世の流れに揺られ、通貨の価値が定まらないこの世界。貴重なものの遣り取りは物々交換が常だ。
新良は先程のハガクレ同様、目を輝かせて懐紙を受け取る。慎重に畳まれたそれを開けば中から一枚の鱗が姿を現した。七色に輝く、大きな鱗。このような鱗を持つ魚は人の世で見たことが無い。
「こりゃマジもんだな」
「当然。人の世の好事家とはわけが違う」
それは本物の龍の鱗だった。まるで薄氷のような軽さと透明度。だが、固く鋭い。人の世に居るだけでは凡そ手に入らない希少品だ。
「良く手に入ったな」
丁寧に包み直し、荷箱にそれを収納して新良が感嘆の声を上げる。対しハガクレは事も無げに「顔が広いからね」と言ってのけた。
「君の方こそ良くこの香炉が手に入ったね。半ば諦めかけていた」
「ああ、どれも陶器のものばかりでな。真鍮のものでその大きさを探すのは少々骨が折れた」
ハガクレは住処を持たぬ旅の鬼。彼の所望は大抵壊れにくい物であり、香炉に関しては旅路中何かの拍子に割れてしまうのでは悲しいので陶器以外のものが欲しいと言われていたのだ。陶器以外、それでいて旅の邪魔にならぬ大きさの物。絵付けがされており、できれば生き物の絵が好ましい。注文は多かったが物々交換の品に希少価値の高い龍の鱗を提示されては致し方ない。新良は古物商が現れたと聞く度に足を運び、何度も品を見定めて漸くハガクレのお眼鏡に適うものを見つけてきたのだった。
「君の苦労はわかっているつもりだよ」
「そうなら有難いんだけど」
酒を呷り、新良が安堵の溜息を吐く。同じようにハガクレも麦茶を飲み込み一息を吐いた。
さて、人の世で使われていたこの香炉。己以外にも人の道具に興味を持つ者は尽きず、良くない輩に目を付けられる前に仕舞おうとハガクレは卓に立てかけてあった旅道具に手を伸ばす。そこにあるのは赤い番傘と麻袋。たった二つの荷物だった。
「その番傘、まだ持ってるのか」
新良が懐かしむように目を細める。ハガクレは頷き柄を掴み上げ、目線の高さまで持ち上げるとそこを少々強い力で捻った。かちりと音がして傘の柄に隙間ができる。間からは鋭い白刃が煌めいた。仕込み刀だ。
「アンタからそれを譲ってくれと言われた時は、鬼が何を言ってるんだと思ったもんだよ」
人間からすれば鬼は恐ろしい妖怪。それが護身のためにもその傘を譲ってくれと声をかけてくるなど、当時は思いもよらなかった。
「鬼とは言え、妖かしの世ではたかが一匹の妖怪。他の妖怪に襲われては一溜まりもない」
とはハガクレの言葉で、新良はその時も希少品と引き換えに傘を譲ったのだった。ただ、その後暫くは新良自身が丸腰となりざるを得なく、随分肝の冷える思いもした。それは自身の教訓とし、ハガクレの知る所ではないが。
「さて、用事は済んだ。私は宿に戻るとしよう」
宿に戻って手に入れたばかりの香炉を思う存分に愛でたいのだ。ここに居る理由もなくなれば一刻も早く立ち去り、一人になりたい。
だが、新良はそれを察しながらもハガクレへ座るよう促した。
「まぁまぁ。折角久々に会ったんだ。もう少し話をしようじゃねえか」
挟間の世に興味を持つ新良にとってはハガクレの話す奇譚も十分に欲を満たすものだ。ハガクレは旅をする妖かし。彼の持つ奇譚はそこらに留まる妖かし達よりも多く、まるでご馳走だった。
「話? 止してくれ。私がいくら旅鬼と言ってもそんな毎回新鮮なネタなど持っていないよ」
ハガクレが面倒くさそうに頭を振って拒否をする。だが、逃してたまるかと言わんばかりに新良も食いつく。
「有るだろう。アンタが新鮮だと思っていなくても俺には斬新だと思える話」
「例えば? 子供の頃川で溺れ、死にかけで此処へ来た結果挟間の世に自由に出入りができるようになってしまった人間の話とか?」
「それは俺の話だろう」
そうじゃなくて、もっと最近の話で! とせっつけばハガクレもようやく腰を落ち着ける。だがまだ話す気配は無い。
新良が不審そうに目を向けると、ハガクレは店の壁に貼り付けられた手書きのメニューを指した。「さばみそ」「里芋煮」「ほっけ焼き」など庶民的な品書きの横に一つ「すとろべりい盛り」と言う珍妙な名の札。
「人の世の中でも珍しい、『異国』と呼ばれる国の食べ物らしい」