マロンな気持ち
その日、私の頭はマロンケーキに埋め尽くされていた。
ああ、あのうっとりとするなだらかな丸い丘のような形、とろけるような甘いマロンクリーム。そして何よりは理想的な甘さと柔らかさを兼ね揃えた和栗のマロングラッセ……!
あの和栗は飾りじゃなくてメインなのよ。デザートの中のデザート、スイーツの中のスイーツ。
授業中もとにかくマロンケーキのことが頭から離れない。
アルファベッドを見ても数式を見ても想像した。
お弁当がマロンケーキじゃないのを恨んだ日は初めてだったわよ。
友人達は怪訝そうに、先生達なんかは不審を通り越して畏怖の目で私を見てたわね。
そして今!
ようやくようやく堂々とマロンケーキを食べにいける放課後となったのだった。
仲のいい友人は何人か居る。女の子の特権よね、こういうグループがあるのって。誘ったらきっと一緒にきてくれるわ。
だから問題はどこのマロンケーキを食べに行くかだ。
これは私にとって東大の受験より難しい問題だった。
大げさじゃなくて本気にそうよ。だって今日ほどマロンケーキに支配されている日なんてかつてなかったもの。
どうせ行くなら新しいところが良いかしら。それともいつもの駅前が良いかしら。デパートのオープンカフェでもこの陽気なら良いわね。それからそれから……。
友人たちが、マックよってくー?、なんて話してるのを聞きながら、私、一人思案中。
そんな時
「悪い、こいつに今日用事あるから。貸してくんない?」
生まれたときから聞きすぎてなんだか耳に馴染みまくってしまっている幼馴染の声がした。
「ちょっと、わたしは貸し出ししたりできる物じゃないわよ」
予定をいきなり変えられそうになって、はるか上にある顔を精一杯睨みつける私。
平均身長よりちょっと低い私と、標準値よりちょっと高いあいつ。足して二で割ってしまえたらどんなにいいかと思う瞬間が今みたいな時。見下ろされながら凄むのはとっても難しい。ぺふぺふと頭を叩くことであっさりいなされてしまう。
今もそう。絶対ずるい。
友達とあいつ、私越しに話をしてる。
「ねぇってば!」
「あーうるさい。しょうがないだろ、うちのババアの言い付けなんだから。モンブランを作ったからお前に来て欲しいんだとさ」
「おばさまのモンブラン?」
ピン、と。
何かを詰め込んだ風船が破れるような、ぱぁっと霧が晴れたような、そんな爽快感を伴って、おばさまのモンブランが私の中に入ってきた。
そうよ。おばさまのモンブランなんだわ。今日私が食べたい物は、それ以外にあり得ないわ。
毎年この時期になると、おばさまは綺麗な蜜色のマロングラッセとモンブランを作る。
うちの親では到底無理なそれが私は大好きだった。
唯一の難点と言えば、こいつと顔を合わせて食べなければいけないという事だけど。
でも今日は特別でいいわ。顔を見合わせながらでも、横に並んで食べようとも構わない。だっておばさまのモンブランだもの。私が一番食べたい物だもの。
がしっとあいつの手を掴んで、友達に手を振る。
「じゃあそういう訳だから、またね、皆。さっ、行きましょう。おばさまのモンブランが私を待ってるわ! 呼んでるのよっ!!」
俄然はりきりだした私に周りがついていけないのもお構い無視。ぐいぐいとあいつの手を引きながら教室を出て行く。
「モンブランが待ってるの呼んでるのって、お前何か悪いもん食ったのか。おいっ、似非ハイジ」
「見て、山が燃えてるわ、ペーター」
「誰がペーターだっ。ていうか、その変なノリもモンブランのせいなのか?!」
わめいている似非ペーターの言葉もやっぱり無視。
私がそいつの手を放したのは、校門を出てから少ししてからだった。
「おばさまのモンブラン~」
下手くそな鼻歌はご愛嬌。
機嫌の良い私の斜め後ろでため息が聞こえたけれど、気のせいでスルーしてしまおう。
そのくらい、今の私は寛大だった。気分だけがスキップして先を急く。
他人の振りをしたかったのか、坂道の途中の人がいなくなった隙に、ようやくあいつは斜め後ろから声を掛けてきた。
「毎年思うんだけどよ。お前、栗、好きだよなぁ」
「違うわよ。好きなのはおばさまのモンブラン」
訂正を入れたらまたため息が聞こえてきたけれど、それも無視る。
「毎年幾つも食ってるってのによく飽きねぇよなぁ」
「当然でしょ。おばさまのモンブランは特別。味良し見た目良し、文句のつけようが無いくらいパーフェクトなモンブランだもん」
「パーフェクトねぇ」
「何? 違うって言うの?」
ジロリと斜め後ろを振り返れば、夕日に横から照らされたあいつの顔。
いつもは小憎たらしいその顔が何故だかひどく優しげに見えたのは、夕日のせいか、それとも私の気のせいか。
気のせい説を押したいけれど、それに反して私の中から栗の実が、ころん、と一個、転がった気がした。こんころろ、と坂道を下ってあいつの足元に止まった感じ。
なんだか変。ものすごく変な感じ。
あいつの顔がまともに見れない。ころころころころ、栗の実だけが溜まっていく。
「まあお前が好きだって言うから、うちのババアも張り切って作るんだけど」
夕日に映えた柔らかい低音がさらに栗の実を溜めていく。
私、一人ころころ。普段のままじゃなくなってる。
あいつは夕日を浴びている以外はいつもと少しも変わらないのに。
……何か、悔しい。
坂の上を見上げると、私はフライング覚悟で走りだした。
「お、おい?!」
あいつの声は無視。栗がまだまだ転がってるから、制止は只今受け付けません。
「きょーそーっ!」
坂を上りきる寸前で振り返って叫ぶと、あいつは仕方ないなといいたげに肩を竦めて、私の後をゆっくり追ってきた。コンパスの違いを表すような、大きなスライドの歩み。それがだんだん早くなって。
「陸上部に勝てると思うなよ?」
返事が聞こえたときには、もう結構距離が縮まってた。
その距離にもやっぱり栗が転がる。
もっと距離を広げないと。
「何よ、当然ハンディキャップ有りに決まってるでしょっ」
私は焦って、ぶんっと勢いつけてあいつにカバンを投げ付けた。楽々受け取ったように見えたけど、あいつはその重さにちょっと驚いたようだった。
「あぶねーことすんな、馬鹿」
「図書館から借りた本二冊入りカバンがハンデだもんーっ。負けた方がモンブラン半分献上することっ!」
いつも半分は分捕ってる私のセリフじゃ無いけど、今の複雑な感情をごまかしたいから言ってみる。
ぱっと走りだした私があいつにどんなふうに見えたのかは分からないけど。
走りながらちらりと視線だけ向けたら、あいつはやっぱりどこか余裕のある優しい顔で苦笑して、私のカバンと自分のカバン、二つを下げて私の後を追って走りだした。
こんころろ、ころろろろ。
転がる栗とは逆方向に、私、走る。
カバン二つ下げたまま、あいつも私と一緒に走る。
追い越さないその余裕、一体どこで習ったのよ。