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京都七景

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 確かに人が二人、ひしと抱き合っている。しかも一人は女である。それは黒いスカートの後ろ姿で分かった。足もとに、旅行バッグが置いてある。やや小さめだから、おそらくは女のものなのだろう。
 ところで、ここで若干気になったことがある。それは、この二人が二十代の若いカップルのようには見えないということだ。どうやら、もう少し年がいっていそうな様子である。さらに率直に言えば、四十代半ばの男と三十代そこそこの女に見える。となると、今度は解釈が難しくなる。これが、若いカップルなら単純である。俺は、青春の清々しさとうらやましさを素直に感じて、通り過ぎればいい。だが、年端が行くにつれ、話は変わってくる。急いで付け加えるが、俺は何も年を取ると恋愛が清々しさやうらやましさを失うと言っているわけではない。ま、そういうものを感じさせなくなるってことは間間あるかもしれないが。でも、年を経たがゆえの熟成した恋愛を見て、清々しさやうらやましさを感じるカップルだってたくさんいる。とくに哲学の道で、そういうカップルに出会うと、おお、これこそ哲学的(つまり哲学するに値するということ)だと感じ入って、つい応援したくなる。ところが、どうしたわけか、この二人にその清々しさとうらやましさは少しも感じなかった。感じたのは、ただ、何か見てはいけないものを見てしまったというやましさと、どこか共犯者めいた胸苦しさだった。だから、いたたまれなくなって、早くこの場から立ち去りたいと思った。ふと見上げると、京都三名勝史跡庭園『南禅院』と出ている。俺は気分を落ち着かせるため、すぐ前の石段をつかつかと上って、その南禅院に入った」
「あの、ひとつ質問してもいいかな」と露野が眉間にしわを寄せてたずねた。
「もちろんさ、どうぞ、どうぞ」と堀井が気さくに返事をする。
 みんなは露野の質問に固唾をのんだ。
「あとの二つはどこだい?」
「えっ?」堀井はなぜか顔を真っ赤にして言葉を失った。われわれは堀井と露野が何を話しているのか皆目見当がつかなくなった。
「あ、あとの、ふたつ、って、どういう…」堀井が苦しい呼吸の中からやっと声を出した。
「あとの、二つだよ。だって三名勝なんだろう?なら、あとの二つがあるはずじゃないか」
「なあんだ、そんなことか。俺はてっきり二人の抱き合った回数を聞いたのかと思って、びっくりしたぜ」と堀井が大きく、ふうっと、ため息を漏らした。
「あほか、いくら俺だってそんなの分かるわけがないじゃないか」と露野がこれまた真っ赤になって反論した。
「いやあ、それが、そうじゃないんだ。言い当てているからびっくりした」
「ええー!言い当てているって!この俺がか?」
「そうなんだ」
「すると、二人は前後三回抱き合ったことになるな」とわたしが余計な計算をする。
「回数もそうだけど、ぼくは堀井がどうして回数まで数えられたのか、そちらの方が気になるよ」と神岡が鋭い質問をする。
「おお、そりゃ、そうだ。ここはぜひ本人に申し開きの機会を与えなきゃいかんな」と大山が身を乗り出す。
「おい、おい、ひどい勘違いだぜ。俺は、恋する二人の後をわざわざつけて、のぞき見するような、性根の腐った男では断じてない。だいたい、この二人から離れたくて南禅院に入ったんだ。だから、断じて俺のせいではない。これから話すことをよく聞いてもらえば、俺がいかに清廉潔白の士か納得してもらえるはずだ。いいかい耳をこらしてよく聞くんだぜ。じゃ、南禅院のところに戻るよ」
 堀井の顔から冷や汗が滴り落ちている。私たちは堀井の弁解に心して耳を傾けた。
「入ると、南禅院は別天地だった。名勝だというのに人ひとり見当たらない。それがまた、いっそうの静けさを深めている。庭はかの池泉回遊式で、その周りを大小の楓の木々が下から上に山の傾斜に沿うようにして取り巻いている。しかも先日来の雨に、若葉と苔の緑が上下に響き合って、庭の大気を瑞々しく潤している。俺はいつしか、先程来の俗塵を忘れ、縁に腰をおろし、ひたすら景色に見入っていた。しだいに心に平衡が戻ってくる。そのとき、石を踏む音がして、人の来る気配がした。俺は何気なく音のする方に顔を向けた。
 何と、入ってきたのは先ほどの男女の一組だった。俺はまたまた、びっくりした。この二人をやり過ごすためにわざわざ南禅院に入ったのに、それと知らずに追いかけてくるとは、なんという偶然のなせる業であろうか。
 偶然はさらに重なった。腰掛けている俺の目線がちょうど二人のつないでいる手をとらえていた。女はその視線にすぐ気づいたものか、すっと自分から手を外して、男に何かささやいた。男は軽くうなずき、女の前に立ってゆっくり俺の前を通りすぎた。女も俯き加減に、すぐその後に続く。左手に旅行バッグが見える。
 二人が通り抜けたとき初めて、女が黒いサングラスをかけていることに気がついた。俺は二人の後ろ姿を見つめた。二人はゆっくり縁側に沿って左に折れて行く。ああ、順路に沿って庭園を廻るんだな、と俺は判断した。ところが少しすると二人がさっきの角に再び姿を現し、こちらに戻って来る。急いではないが、踏む砂利の音が少し高くきしむ。おそらく出て行こうとしているのだ。俺は直感した。
 男は白い麻のスーツに派手なオレンジのアロハを着ている。女は膝までの黒いタイトスカートに金色のセーター、上に灰色のジャケットを羽織っている。もちろんサングラスはかけたままだ。二人は再び俺の前を通り抜けると、予想通り、もと来た方へ姿を消した。
 さあ、どうしたものか、と俺は迷った。このままここに居残るのは問題ないが、二人に心の静寂を乱されてしまった以上、ケチがついたようで何だか居心地が悪い。かといって、すぐに出て行けば後を追いかけているように見られて決まりが悪い。
 しかたがない。二人が遠ざかるのを待って、ここを出ることにし、十分ほど経ってから、いよいよ南禅院を出た。門前に二人の姿はなかった。よし、これなら大丈夫。これで俺の心も余計な関心に悩まされなくて済みそうだ。俺はほっと一息ついて、すぐ左の水路閣の上に続く道へと歩き出した。
 水路閣の上には太く一本、水路が走っていた。水路はU字型に掘下げてあり、幅は2メートルほどもあるだろうか、その中の七分目あたりを水がどうどうと勢いよく流れている。水の流れてくる方を見ると、水路が奥のほうまでまっすぐに伸びて、山の斜面を削って水路を通したことがよくわかる。というのも、半分くらいのところまで水路の右側が深い谷になって落ちているからだ。そこから先は、おそらく傾斜が緩やかになったのだろう、斜面を切り通し、左は高い崖だが右は少し盛り上がった緩やかな丘になって続いている。見通す限り人影は見えない。なるほど、こんなところを女一人で歩くのは不用心だな。ふと、そんなことが思い浮かんだ。
 俺はどうも美学が専攻なせいか、男女間の恋愛より、建築や絵画の美に引きつけられる嫌いがある。この日も水路閣という魅力的な建築物に出会あったがため、ついに、かの男女の恋愛模様は忘れてしまうはずだった。ところが幸か不幸か、その日は何をしようと、その男女から離れられない宿命になっていたらしい。
作品名:京都七景 作家名:折口学