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彼岸の路

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 ごおん、と遠くで鐘の声。一つ、二つ、三つと響き、音は一度止まる。次いで暮六つを知らせる音が鳴らされた。
 空は夕暮れ。だが、秋分を遠に過ぎれば暮れ六つ時はあっという間に闇に染まる。あと数刻もしない内に夜が訪れるだろう。山間の土地では平地に比べ日の入りが顕著だ。
 そんな僅かばかりの夕日を楽しむように、赤い蜻蛉達は優雅に空を舞う。辺りは一面の水田で、水路沿いには真っ赤に灯る彼岸の花。日の入前の一瞬は酷く煌々とした赤い世界だった。
 そこへ一つ、陽の落ちる元へ向かう男の影。彼は辺りを見渡し、人目を避けるように背の高い芒の合間を縫って歩く。その度に花穂は不自然に揺れた。
 息を荒げ、時折振り返って後をつけられていないか確認をする。まるで何かに追われるのを恐れるような行動だった。
 暫くは芒の中を歩いていた男だったが、芒はどこまでも生えているわけではない。やがて芒の道が切れると辺りには稲穂の光景が広がる。
 男は暫く悩んだ後、仕方なしに水路を伝う彼岸花の道に足を踏み入れた。
 たかが畝のように盛り上がっただけの道。足場は悪く、彼は咲き誇った彼岸花をぐしゃりと踏み締めながら歩みを進める。無残にも傷めつけられた花々は、まるで血の後のように男の痕跡を残した。
「やあやあ、可哀想なことをする」
 突如そんな声が辺りに響く。男は冷や汗を零しながら辺りを見渡した。
「花に罪は無いだろうに」
 声は男の正面から聞こえてくる。だが、姿は見えない。
「誰だ!」
 たまらず男が声を上げれば視界の一寸先の空気がぐにゃりと歪み、そこから草鞋を履いた爪先が現れた。爪先だけではない。歪みはゆっくりと人の姿を形取り、陽炎の中に光が揺らぐかのごとくそこに色をつけてゆく。背は少し小さいが、先程響いた声は男のものだったので恐らく男なのだろう。
 やがて夕日を背に現れたのは檜皮色の着物に赤い半纏、それに銀色の髪に碧色の目を持つ青年だった。その片方の目は不自然に前髪で隠されている。それだけでも人外であるのは一目瞭然だが、男が恐ろしいと思ったのはその額にあった。
 額に生えた二本の角。皮膚から直接骨が盛り上がるようにして生えたものだ。いわゆる「鬼」と呼ばれる者だと気付き、男は情けのない悲鳴を上げて尻餅をついた。
 鬼は「おや」と目を丸くし、頭上に藤の描かれた真っ赤な番傘広げてくるりと回す。
「今更鬼に怯えるのかい。君とて鬼のようなものなのに」
 碧色の瞳を細め、鬼は男を見下した。
「嗚呼、哀れ。彼岸の花は誰に手向けられるものなのか」
 つい、と足を一歩前に出せばへたり込んだままの男が恐怖に身を引き攣らせながら後退る。
「君へか」
 それとも、と加えてもう一歩。
「君が殺した彼女にか」
 途端、男が息を詰める。それを確認した鬼はニイと口角を上げて笑った。
「な…何を」
「しぃ」
 鬼は男が何か叫ぶより先に己の口元へ人差し指を当て黙るよう促す。それに従ったのを確認し、彼は再度目を細めると男に歩み寄った。後一歩で手が触れるところまで男に近寄り、徐に腰を落として目線を合わせる。
「君を責めているわけではないよ」
 宥めるような声音で男の頬に手を触れる。そこに人のような熱はない。それが余計に男の肝を冷やした。
 さて、責めるわけではないと言ったが、ならば何故己に声を掛けてきたのか。分からず男が鬼を見遣ると彼はトンと逆光で作られた自分の影を指す。そこはあまりに暗く、まるで墨を垂らしたようだった。
 いくら影とは言え暗過ぎないか。不審に思い目を凝らしてみると影の中から己を見遣る目玉が二つ、ぽこりと水面に沸く気泡のごとく浮かび上がる。
「ひっ」
 目玉はぎょろぎょろと忙しなく動きまわり、程なくして男の姿を認めると真っ直ぐに彼へ見入った。
「私は責めはしないし、裁きもしない」
 鬼はゆるりと腰を上げる。それと一緒に影が伸びた。
「ただ、頼まれたから連れてきただけ」
 言葉を吐けば吐くほど影は一層に伸び、遂には鬼の傘よりも大きく伸びる。やがて影は人の形を取ると、ゆっくり鬼から離れ彼の横に並んだ。そう、横に並んだのだが、鬼の隣には人っ子一人居ない。ただ目玉の付いた影だけが有るのだ。
 それは袖の長い、女性の影。
 男は目を見開き、顎が外れんばかりの大口を開ける。足場の悪い道で慌てて後退った彼は水路へ落ちていった。幸いというか不幸というか、水位はへたり込んだ男の腰高程度で溺れることはなかったが、尻を強打して痛みに呻く。
「君を愛した女性だろう?」
 ほんの少し高い位置に居るだけだというのに、鬼は威圧的に男を見下ろした。そこへ女性の影がずるりと這い寄る。
 男は恐怖のあまり身動きの出来ない。影は構わず男の元へ忍び寄り、辿り着くと途端に彼の影に溶け込む。そのまま足を這い、腹を伝い、喉を駆け上がって体を覆う。目玉は忙しなく表皮を駆けていたが、彼の後頭部に張り付くと背中合わせのような位置で落ち着いた。
 何とか影を剥がそうと男が後頭部の目玉に手を向けたが、突如その指先に激痛が走り水路の中に蹲る。痛みのもとに目を向けるとはっきりとした歯型が残されていた。合わせ鏡がなければ見えないその位置に何が起きているのか。男に知る術はない。ただ、己の口の真後ろから呻き声が聞こえることだけは理解した。
「ああ、許してくれ、許してくれ! 殺すつもりはなかったんだ」
 男は突如許しを請う言葉を口にした。
「金なら返す、だから放してくれ!」
 男は女が己に好意を寄せているのを知っていた。その想いを利用して金を奪った。だが、踏みにじられた想いに気付いた女に問い詰められ、逆上の末に斬り殺したのだ。
 ほら、と男は懐から微々たる金子を取り出し鬼へ差し向ける。だが、鬼は呆れたように傘をくるりと回して溜息を吐いた。
「乙女心がわかっていない。彼女は金など必要無いんだ」
 もう現し世には居られない身。ならば欲しいものは何なのか。背中に彼女の念を背負う男は酷く青褪める。それと同時に足元がずぶりと水音を立てて沈んだ。
 見れば足は底なしの沼に嵌ったかのごとく動かず、藻掻こうが何をしようが構わず飲み込まれていく。当然たかが水路にそんな深さは無い。
 悲鳴を上げ助けを乞う声が辺りに響いたが、生憎彼が選んだこの人気のない道では手を貸してくれる者も通らず。ただ、水路に沿うように咲き乱れた彼岸花と一匹の鬼だけが影に沈められる男を無情に見下ろす。
 やがて声は水を含み、聞こえなくなっていく。
 最後に一つ、どぼんと大きな水音。一瞬だけ水面に赤い花が咲くが、それも直ぐ様水の流れに掻き消されていく。
「愛した人と共に居たいという気持ち。鬼の私にすらわかるというのに」
 鬼はそう残すと踵を返した。
 残るのは影も薄れる夕の闇。緋色の蜻蛉も姿を消す。
作品名:彼岸の路 作家名:Kの字