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漢字一文字の旅  紫式部市民文化特別賞受賞作品

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29―4 【鹿】

 【鹿】、動物の「しか」を横から見た象形文字だとか。そう言われれば、そのようにも見えてくるから不思議だ。

 「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く【鹿】の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
 そんな【鹿】の鳴き声は穏やかで、哀愁が漂う。そして、【鹿】が鳴くことを「鹿鳴」(ろくめい)と言う。

 明治16年(1883年)、鹿鳴館が落成した。その思いを外務卿の井上馨は宣言した。
 「国境の為に限られざるの交誼(こうぎ)友情を結ばしむる場となさんとする」と。
 ここから鹿鳴館時代が始まった。

 毎夜、外国人賓客を招き舞踏会が催された。
 そして当然ながらそこには華が咲いた。
 鹿鳴館の華と呼ばれた大山捨松(おおやますてまつ)、戸田極子(とだきわこ)、そして陸奥 亮子(むつりょうこ)だ。
 いずれも美貌の貴婦人たちだった。

 その一人の大山捨松は新島八重より15年遅く会津若松で生まれた。幼い時は「さき」と呼ばれていた。
 さきが11歳の時、津田うめを含む少女たちと共に、米国へ留学した。その旅立つ時、横浜港まで見送った母が「娘を一度捨てた、だが帰国を待つ(松)」とし、「捨松」と改名させたそうな。

 11年間米国に滞在し、勉学に励み、また西洋文化を吸収し帰国した。
 その後、参議陸軍卿の伯爵・大山巌と結婚する。披露宴は鹿鳴館で開催され、一千人の人たちが招待され、それは盛大なものだったとか。
 美貌の大山捨末はドイツ語、フランス語、英語に堪能であり、鹿鳴館の華と言われるようになった。

 こんな華やかな鹿鳴館、本当のところ外国人にはどのように映っていたのだろうか?
 フランスの海軍仕官、ピエール・ロティは後の小説に描写した。
 鹿鳴館は温泉町の娯楽場、振る舞いは笑劇、まったく猿真似だ、とまことに辛辣。しかし、どうもその通りのようで、まんざら嘘ではなかったようだ。

 明治20年4月20日、時の権力者・伊藤博文は鹿鳴館の横滑りで、首相官邸でファンシー・ボール、つまり仮装舞踏会を開催した。
 これに400名が参加し、牛若丸、白拍子、七福神などと着飾って……、とどのつまりが乱痴気騒ぎに。
 男たちは酔っ払って服を脱ぎ、女たちは悲鳴を上げて逃げまどう始末。
 結果、「某所の宴会」での、「某」と「某候の妻」が……との噂が流れた。
 すなわち、伊藤博文が岩倉具視の次女・鹿鳴館の華の戸田極子夫人と仲良くなろうとした、と。
 さらに、極子は裸足で逃げ、なんとか無事だったと、こんなスキャンダルを新聞が報じた。

 このような目に余る風潮を批判し、「女学雑誌」は社説で、鹿鳴館は「姦淫の空気」と断じた。

 いやはや【鹿】という漢字、本来は――「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 【鹿】ぞ鳴くなる」と趣のある漢字だが、それ以来、全国の【鹿】が怒ってるとか。