とりかえごっこ
「蒼子ちゃん、起きないと。ね、起きて」
次の日の朝。蒼子を起こしたのは知らない声だった。
「だれ?」
「やだ、寝ぼけてるの?お姉ちゃんよ?」
「おねえ、ちゃん……?」
長い髪に、優しい笑顔の、かわいい女の子。これは――
「!お姉ちゃん!」
約束の、理想の姉だ!
「やっと起きた。早く顔洗って、ご飯食べよう?今日はお休みだから、何して遊ぼうか」
居間に行けば、不思議なことに、母も父も、紅太がいなくなって新しく姉が代わりに来たことなんて、全然気にしていないようだった。
「朱音、後で洗い物手伝ってちょうだい」
「蒼子、あとで朱音に宿題見てもらいなさい」
当たり前のように姉――朱音と話をしている。まるで紅太なんて初めからいなかったみたいだ。
朱音はよく笑う。兄が姉に変わっただけで、家の空気が明るくなったみたいだった。
朝ご飯を食べて、そのあとはたくさん朱音と遊んだ。朱音は紅太と違ってなんでも蒼子のしたいことをさせてくれた。
お人形遊びに飽きたらおままごと。それも飽きたら一緒に本を読んだ。「いい加減に宿題やれ」なんて絶対に言わない。紅太と違って朱音はなんでもわがままを聞いてくれた。
楽しかった。――最初は。
でも、なんだか違うのだ。好きなことだけできるのも、何でも言うことを聞いてくれるのも、不思議と楽しくない。
夕方になる頃には、蒼子はすっかりむくれていた。そんな蒼子を見て、朱音が不安な顔をするのが、やけにしゃくにさわった。
「もう、いい。楽しくないもん」
「ごめんね、蒼子ちゃん、お姉ちゃんが悪かったね。ごめんね、だから怒らないで、ね」
ちがう。そんな言葉が欲しいんじゃない。
「そうじゃないもん、違うもん!」
「ごめんね、蒼子ちゃん、ごめんね」
違う違う違う。両手を握りしめて、気づいた時には、涙がこぼれていた。
「違うもん、ちがうもん、ちがうもんっ!」
泣かないですむタイミングを完全に逃して、気づくと蒼子は久々に本気で泣いていた。
「ああ、こんなに泣いてかわいそうね。ごめんね、蒼子ちゃん、お姉ちゃんが悪いのね」
違うのだ。そんなんじゃ、泣きやむきっかけがわからない。泣くな、と言ってくれるから、蒼子は泣かない強い子だったのだ。
ごめんね、とそればかり繰り返す朱音を、蒼子は思わず突き飛ばしていた。
「あなたは私のお姉ちゃんじゃないっ!」
「蒼子ちゃん、」
驚いた顔の母も父も、一瞬で表情をなくした朱音も無視して、蒼子は家を飛び出した。
返してほしい。それだけを強く思って、蒼子は走った。公園。鳥家はきっと来る。
そしてやはり、鳥家は来た。
「困りますな、あんな行動をとられては」
昨日と同じ、一人ブランコをこぐ蒼子の元へやってきた鳥家はあからさまに困った顔をしていた。
「あのようなことを言うのは、一番の禁止事項だとお話ししたはずですが」
「だって、わたしのはお兄ちゃんだもん」
意地悪だし、優しくないのは本当だ。だけど、本当はそうじゃない。意地悪でもないし、優しくなくない。今更、わかった。
「私のお兄ちゃんは、村崎紅太だもん」
「……お兄様をお返しすることはできます。ただしその場合あなた様は当社の会員からは永久追放となり、二度と理想の姉、もしくは兄を持つことは出来なくなります。それでもよろしいのですか?」
「いいわ」
このことを、絶対に後悔しない、と蒼子はまっすぐ鳥家の目を見た。絶対に、瞬きもしないで、強く。
「……承知致しました」
しばらく見合ったあと、鳥家がふいと目をそらせた。
「それでは明日の朝にはお兄様をお返しいたします。短い間でしたが、ご利用ありがとうございました」
あ、と思った時にはすでに鳥家の姿は消えている。最後まで、不思議な男だった。
だけどもう、二度と会うことはない。
その日、心配して途中まで迎えに来てくれた朱音に「ごめんなさい」を言って、蒼子は部屋に戻った。
ベッドに入って、時計を見つめる。
どれだけ時間が過ぎても、真夜中になっても、やはり隣の部屋は静かなままだった。
――いじわるで、優しくない兄なんて、嫌いだった。だけど、優しいだけの姉なんて、もっと嫌だった。
優しい姉の「ごめんね」なんかよりも、意地悪な兄の「泣くな」の方が、蒼子には嬉しくて仕方がない。だから、ずっとずっと、蒼子の兄は、村崎紅太だ。
明日になったら、絶対にまず「蒼子」と、一日ぶりに呼んでもらうのだ。
(終わり)