源内倶楽部 1
良信自身も、今まで漢方医しかなる事のできなかった奥医師の地位を初めて蘭学医師として狙っている野心を持った人物だ。
しかし、この世界も昔からの慣習や漢方医の反発などがあり、苦戦している現実がある。
良信はこの仕事が幕閣とつながりを持つ糸口になれば自分の野心を実現するためになるのではと考えて引き受けた仕事だ。
だから、それほど帰雲や源内達の企みには興味はなかった。
さらに良信には、帰雲にも内緒の、内々に老中達に指示された汚れ仕事がある。
その良信の裏の汚れ仕事とは、企てが露見したりして表沙汰になる危険が生じた場合には、企みに関わっている者達を毒殺し始末しろと命じられていたのだ。
「それでは」
帰雲が再び話を始めようとする。
「あのー、お茶をいただけますかな。さなえ様」
今度は良信が帰雲の言葉を遮ったのだ。
「そうそう良信殿にお茶をな」
源内は帰雲の言葉を遮った良信と事情は異なるが、今回の仕事にさなえを巻込みたくないという思いは同じだった。
「はいはいお邪魔でございましょ。帰雲のおじ様、お祖父さまにあまり無理をさないようにお願いします」
良信はやれやれとほっとしていた。
万が一に汚れ仕事を実行しなければならなくなった時、なるべく人数が少ない方がよいと思っていたからだ。
それに良信にはさなえと同じ年頃の娘がいたからでもあった。
「はい。申し訳ございませぬお邪魔ですね」
さなえは座敷から出て行った。
「これでございますが」
帰雲は懐から一通の文を取り出し、源内に手渡した。
その文とは、月番老中から預かった長崎出島のオランダ商館長のドンケル・クルチウスが長崎奉行に提出し、筆頭老中の阿部正弘が黙殺した公文書だった。
「御隠居の事でございますからすでに御存じでございましょうが」
「万次郎さんからも文はもらったがな、あいつがそろそろこっちに来る時分だと思っていた。とうとう江戸に来るか」
源内は帰雲が手渡した文を読み始めた。
「ところで、こっちのほうは満腹かい」
源内は懐をポンと叩いて帰雲の顔を覗き込んだ。
「はいはい、ご心配なく満腹でございます」
帰雲も胸を張って突出した自分のお腹をゆっくりとなで回した。
その二人のやり取りをそばで見ていた良信が、何の事やら合点がいかぬと首をかしげた。
「では早速まいりましょうかな、金さん」
そう言うと源内は嬉しそうな顔で立ち上がった。
「しかしでございたす御隠居、今日のところは」
「なんだいお前さんらしくない。こんな時は真っ先にお前さんから話が出ると思っていたのに、どうしたい金さんよ」
「この度はお神の仕事でございますので用心には用心が寛容かと。年寄りだけでは不用心でございます」
「せっかくの満腹で、たらふく楽しめると思ったに」
良信がまた訳の分らない二人の会話に首をかしげた。
それに何だか自分だけが除け者にされているみたいで、ちょっとムッとし顔をした。
「帰雲さんや」
源内は良信の態度に気付き、帰雲に目配せした。
「これは申し訳ございませなんだ。良信殿には何の事やら合点がいきませんでしたな、あいすまぬ事でございました」
「満腹とか、どちらかに行くとか?何の事でございます」
良信もそれならばとはっきりたずねてみた。
「いやいや、軍資金の事でございます。今回の事でその筋よりたんまりと軍資金を頂いておりますのでな、懐の財布には小判が満腹という訳で」
「おおぅ、それで満腹と」
「左様でごさまいます」
「なれば、その軍資金でどちらかにお出かけで」
「仲でございます、前祝いにぱーっと仲にぐりだそうという魂胆で」
「仲とは、吉原でございますかー吉原」
良信は源内達の話が吉原行きと分かって、慌てて身を乗り出した。
「良信さんもお好きなようですな、それはそれは上々上々」
良信の嬉しそう顔に、源内の良信に抱いていた印象が少し変った。
伊達家の侍医で蘭学医者とくれば、さぞかし遊びも知らず、学問一途の堅物だろうと源内は決め付けていたからだ。
「まっ、参りましょう吉原へ」
「参ろう参ろう吉原へ」
良信と源内は一緒になって、今から吉原へ行こうと、帰雲に子供がせがむ様にはやし立てた。
「いやいやご両人。これからは何が起こるか分かりませんぞ、お役に立つ者を揃えまして参上いたしますのでしばらくお待ちくださませ」
「そのような心配はいらぬがのー」
源内はまだ諦められない様子だ。
「そうは参りませぬ。用心にはご用心、これからの仕事は日本国のためでございますぞ」
「せっかくのう・・・残念じゃ」
「まあしばらくの我慢でございますからご隠居」