懲りない私
☆ 懲りない私
今夜、新しいサイトに作品をあげてきた。このサイトはまったく未知であり、今までは小説はおろか、ブログさえ登録したことはない。
まったくの冒険である。上手くいけば良いが、元々、それほど甘い考えは抱いていないので、駄目だったら、早々に撤退しようと考えている―笑
私は同じ作品を複数サイトで発表している。それは一人でも多くの人に読んで貰いたいからだ。何も有名になりたいとか、名を売りたいとか、そんな欲があるわけではない。自分が書いた作品をたくさんの人読んで欲しいという純粋な物書き根性があるだけである。
アマチュアだから、書くということにおいて、縛られることがない、規制がないのはありがたい。いつでも自分の書きたいときに書きたいものを書けるというのは、実はとても幸せであり恵まれていることなのだ。他人に迷惑さえかけなければ、どこで自作を発表しようと良いし、結果が芳しくなくとも、責められることはない。
物書きとしては、筆歴が長いのと作品数が多いのだけが取り柄だが、作品はどれも駄作ばかりで、たいしたことはない。筆歴も長いだけで、いまだにマイナーである。それでも、自分なりにこの道を懸命に歩いてきた。自分の人生と同様、文芸の道も愚直なまでに真っすぐに歩いてきたことだけが唯一、自慢できることかもしれない。
長く書き続けている間には、色々なことがあった。他人に酷いことを言われたこともあるし、それで涙を流したこともある。二年半前に同人誌終刊を機にネット小説の世界に足を踏み入れてからは、ますます複雑な人間関係に属することになった。
ここからは少し創作活動とは外れるかもしれないが、ネットでまず戸惑うのは、人間関係ではないだろうか。人対人、つまり相手との距離感をはかるのが難しい。最初、私はリアルと同じようにこれについて考えていたら、とんでもない。正直にいえば、ネットに車で、私の考える「常識」とは、せいぜいが数通りくらいの考え方に限られていた。こういうときは、こうあるべきとか、こうするべきとか、そういう規範があって、私の知る人たちは、そういう私の重んずる常識の枠からはみ出さない人たちばかりだった。
が、ネットではハンドルネームを使い、自分がどこの誰かを明かさない。そのせいもあるのだろうが、「常識」から外れた行動を眼にすることが多くなった。もちろん会ったこともない人たちばかりだけれど、それでも何かのきっかけがあり親しくなっていく中に、突如として人格が豹変して、とんでもない眼にあわされたこともある。言いたい放題言われて、後は反論できないようにブロック設定されてたなんてことも。
何かにつけて言いがかりばかりをつけて、不正をしているのだろうと決めつけた迷惑なメールを何度も送りつけてきた人もいた。
けれど、そんな人たちばかりではない。どのサイトにも良識的な人は必ずいて、私はとんでもない人たちとも拘わったが、同時にそういう素晴らしい人たちとも知り合いになることができた。そういう後者の常識的な人たちとは今も細々ながら、交流は続いている。 だから、総合的に判断すると、やはりネットに来て良かったということになるのだろう。だが、私がこのような心境に至り、遅まきながらネットで知り合った人との付き合い方というか距離感の取り方を少しは習得できたのは、ごく最近だ。
深追いはしない。深入りはしない。去る者は追わず。これは大切だと思う。が、もっと大切なのは、やはり誠実であることだろう。相手がどこの誰とも判らない付き合いで、誠実も何もあったものではないと嗤われるかもしれない。しかし、私はやはりリアルであろうとネットであろうと、人間関係において最も大切なのは信頼であると思っている。信頼して貰うためには誠実でなけばならない。たとえ相手が卑怯な人であったとしても、自分は誠実であれば良い。
そういう人とはどうせ長続きはしない。だから、誰とは判らなくても、自分が知る限りにおいてのその人に対して誠実でありたい。その人が同じく誠実な人であれば、恐らくは自分の誠意も伝わることだろう。伝わらなければ、それは所詮、そこまでの人であったということだ。
話をここらで創作に戻そう。筆歴が長いという話をしたけれど、長ければ必然的に、結果に一喜一憂した回数も多い。正直なところ、今でも結果が思わしくなければ、へこむ。だが、私は敢えて自分に言い聞かせている。
―自分の辞書に落胆や失望という言葉はあっても、絶望はない。
そんなことをいえば、なんて傲慢なと言われるかしれない。本当はもちろん、絶望もあるのだけれど、わざとそういう風に考えるようにしているのだ。
誰かがブログで書いていた。
―諦めるということは、自分がそこでもう良いと努力を止めたときのことなんだ。
この一文を読んでから、これが私の座右の銘となった。
確かに、そのとおりだと思う。健康である限り、そこで終わりということはない。転んだら、その場所で立ち上がれば良いだけだし、挫折すれば、またやり直せば良い。
☆人生が続く限り、チャンスは何度でもある。☆
それが、私の信条だ。本当に怖いのは失敗することではなくて、自分が自分の可能性に見切りをつけて、自分の限界を決めてしまうことだろう。
努力を止めたときから、進歩はなくなる。努力を続けていれば、少しでも進歩はあるし、いつか夢が叶うかもしれないし、チャンスが舞い込むこともあるかもしれない。
そう考えてゆけば、人生で何があったとしても、絶望する必要はないと思いませんか?
だから、私は懲りない人間といえるとも思う。
何度転んでも、また立ち上がり、歩き続けようとする。何があっても、誰に何をを言われても、とことん傷つくが、それで終わりにはならない。
次はその言葉を乗り越えるくらいに、すばらしい作品を書くことで、それを克服すれば良い。―本当は私は弱い人間なのだが、それくらい不屈な魂を持つ心意気でいなければ―呆れるほど懲りない人間でなければ、長く書き続けていくことはできない。
二十代後半の頃、私に開高健さんの
―トラブルを歓迎しろ。
という言葉を教えてくれた人がいる。二十七歳の私より十歳年上の自称フリーライターの男性だった。後に地方紙でドキュメンタリーを連載するほど活躍されることになるのだが、当時はまだ、アマチュアのフリーライターだったと思う。
物書きはトラブルがあっても、それをネタにして書いてやる! くらいの心意気がなければ駄目だと私に教えてくれた。当時、私は初めての単行本を出版した直後だった。思えば、そのときが私が本格的に書き始めた瞬間であり、曲がりなりにも一生書いてゆこうと決意した節目でもあった。
―トラブルを歓迎しろ、の言葉はいまだに形を変えて私の中で脈々と生き続けている。そして、長いこれまでの年月、私を支えてくれた言葉であり、これからも支えてくれるであろう言葉だ。
今夜、新しいサイトに作品をあげてきた。このサイトはまったく未知であり、今までは小説はおろか、ブログさえ登録したことはない。
まったくの冒険である。上手くいけば良いが、元々、それほど甘い考えは抱いていないので、駄目だったら、早々に撤退しようと考えている―笑
私は同じ作品を複数サイトで発表している。それは一人でも多くの人に読んで貰いたいからだ。何も有名になりたいとか、名を売りたいとか、そんな欲があるわけではない。自分が書いた作品をたくさんの人読んで欲しいという純粋な物書き根性があるだけである。
アマチュアだから、書くということにおいて、縛られることがない、規制がないのはありがたい。いつでも自分の書きたいときに書きたいものを書けるというのは、実はとても幸せであり恵まれていることなのだ。他人に迷惑さえかけなければ、どこで自作を発表しようと良いし、結果が芳しくなくとも、責められることはない。
物書きとしては、筆歴が長いのと作品数が多いのだけが取り柄だが、作品はどれも駄作ばかりで、たいしたことはない。筆歴も長いだけで、いまだにマイナーである。それでも、自分なりにこの道を懸命に歩いてきた。自分の人生と同様、文芸の道も愚直なまでに真っすぐに歩いてきたことだけが唯一、自慢できることかもしれない。
長く書き続けている間には、色々なことがあった。他人に酷いことを言われたこともあるし、それで涙を流したこともある。二年半前に同人誌終刊を機にネット小説の世界に足を踏み入れてからは、ますます複雑な人間関係に属することになった。
ここからは少し創作活動とは外れるかもしれないが、ネットでまず戸惑うのは、人間関係ではないだろうか。人対人、つまり相手との距離感をはかるのが難しい。最初、私はリアルと同じようにこれについて考えていたら、とんでもない。正直にいえば、ネットに車で、私の考える「常識」とは、せいぜいが数通りくらいの考え方に限られていた。こういうときは、こうあるべきとか、こうするべきとか、そういう規範があって、私の知る人たちは、そういう私の重んずる常識の枠からはみ出さない人たちばかりだった。
が、ネットではハンドルネームを使い、自分がどこの誰かを明かさない。そのせいもあるのだろうが、「常識」から外れた行動を眼にすることが多くなった。もちろん会ったこともない人たちばかりだけれど、それでも何かのきっかけがあり親しくなっていく中に、突如として人格が豹変して、とんでもない眼にあわされたこともある。言いたい放題言われて、後は反論できないようにブロック設定されてたなんてことも。
何かにつけて言いがかりばかりをつけて、不正をしているのだろうと決めつけた迷惑なメールを何度も送りつけてきた人もいた。
けれど、そんな人たちばかりではない。どのサイトにも良識的な人は必ずいて、私はとんでもない人たちとも拘わったが、同時にそういう素晴らしい人たちとも知り合いになることができた。そういう後者の常識的な人たちとは今も細々ながら、交流は続いている。 だから、総合的に判断すると、やはりネットに来て良かったということになるのだろう。だが、私がこのような心境に至り、遅まきながらネットで知り合った人との付き合い方というか距離感の取り方を少しは習得できたのは、ごく最近だ。
深追いはしない。深入りはしない。去る者は追わず。これは大切だと思う。が、もっと大切なのは、やはり誠実であることだろう。相手がどこの誰とも判らない付き合いで、誠実も何もあったものではないと嗤われるかもしれない。しかし、私はやはりリアルであろうとネットであろうと、人間関係において最も大切なのは信頼であると思っている。信頼して貰うためには誠実でなけばならない。たとえ相手が卑怯な人であったとしても、自分は誠実であれば良い。
そういう人とはどうせ長続きはしない。だから、誰とは判らなくても、自分が知る限りにおいてのその人に対して誠実でありたい。その人が同じく誠実な人であれば、恐らくは自分の誠意も伝わることだろう。伝わらなければ、それは所詮、そこまでの人であったということだ。
話をここらで創作に戻そう。筆歴が長いという話をしたけれど、長ければ必然的に、結果に一喜一憂した回数も多い。正直なところ、今でも結果が思わしくなければ、へこむ。だが、私は敢えて自分に言い聞かせている。
―自分の辞書に落胆や失望という言葉はあっても、絶望はない。
そんなことをいえば、なんて傲慢なと言われるかしれない。本当はもちろん、絶望もあるのだけれど、わざとそういう風に考えるようにしているのだ。
誰かがブログで書いていた。
―諦めるということは、自分がそこでもう良いと努力を止めたときのことなんだ。
この一文を読んでから、これが私の座右の銘となった。
確かに、そのとおりだと思う。健康である限り、そこで終わりということはない。転んだら、その場所で立ち上がれば良いだけだし、挫折すれば、またやり直せば良い。
☆人生が続く限り、チャンスは何度でもある。☆
それが、私の信条だ。本当に怖いのは失敗することではなくて、自分が自分の可能性に見切りをつけて、自分の限界を決めてしまうことだろう。
努力を止めたときから、進歩はなくなる。努力を続けていれば、少しでも進歩はあるし、いつか夢が叶うかもしれないし、チャンスが舞い込むこともあるかもしれない。
そう考えてゆけば、人生で何があったとしても、絶望する必要はないと思いませんか?
だから、私は懲りない人間といえるとも思う。
何度転んでも、また立ち上がり、歩き続けようとする。何があっても、誰に何をを言われても、とことん傷つくが、それで終わりにはならない。
次はその言葉を乗り越えるくらいに、すばらしい作品を書くことで、それを克服すれば良い。―本当は私は弱い人間なのだが、それくらい不屈な魂を持つ心意気でいなければ―呆れるほど懲りない人間でなければ、長く書き続けていくことはできない。
二十代後半の頃、私に開高健さんの
―トラブルを歓迎しろ。
という言葉を教えてくれた人がいる。二十七歳の私より十歳年上の自称フリーライターの男性だった。後に地方紙でドキュメンタリーを連載するほど活躍されることになるのだが、当時はまだ、アマチュアのフリーライターだったと思う。
物書きはトラブルがあっても、それをネタにして書いてやる! くらいの心意気がなければ駄目だと私に教えてくれた。当時、私は初めての単行本を出版した直後だった。思えば、そのときが私が本格的に書き始めた瞬間であり、曲がりなりにも一生書いてゆこうと決意した節目でもあった。
―トラブルを歓迎しろ、の言葉はいまだに形を変えて私の中で脈々と生き続けている。そして、長いこれまでの年月、私を支えてくれた言葉であり、これからも支えてくれるであろう言葉だ。