電話の中
1上野毛久乃(かみのげ ひさの)
受話器をあてている左の耳がじんじんして、頭の側面にはりついているようだった。適当に流したリンスがベタベタしていた。何時間が過ぎたのか分からない。小さな声は途切れ途切れに続いている。
「だからね。始めはちゃんとしなきゃって思ってたの」
「ん」
「でも、なんだか疲れちゃって。側にいる人に頼らないと、やってられなかったの」
「ん」
「泣いてもいいんだよ。疲れたら人に頼っていいんだよ。甘えて、休んで、また新しい出会いを見つけに行けばいいんだよって」
「ずっと側にいるから。か」
「うん」
「で?」
「立ち直れたの。で、告白された」
「そうなるだろうね」
「でも、私その人の事、好きじゃないの。いい人だとは思うし、私が一番落ち込んでいたときに支えてくれた人なんだけど、好きじゃないの。どうすればいいんだろう」
「別れればいい」
「そんなひどいことできないよ。そんな都合のいいことなんて…」
「つきあえばいい」
「でも、好きでもないのに、自分の心を偽ってつきあうのは、相手に失礼だし傷つけると思うの」
「よく分かるよ」
「どうすればいいのかな?」
受話器を耳から引き剥がして、右の耳にあててみる。だが、慣れていないせいか、どうもよく聞こえない。結局、左耳に、再び押し当てる。千切れるような痛みが走る。
「大丈夫? ごめんね。こんな時間に」
「かまわないよ」
「でも、明日仕事でしょ?」
「かまわないよ」
「でも悪いな。なんか」
「悪くないよ。いつでも連絡くれっていったのは僕の方なんだから。電話をくれたのは久しぶりだし」
今時、コードレスでもないダイヤル式の固定電話機を使っている。ダイニングの床に体育座りをしていると、尻と膝とくるぶしとが静かに痺れて腐っていくようだ。受話器を持っている左手が震えはじめる。
「今日、誘われてたの」
「ふうん」
「今夜が最後だからって」
「ああ」
「でも、いきたくなかったの。ホテルまで予約してたの」
「いかなかったんだろ」
「まあ、今のところは…」
「何? もう三時だよ」
「のばしてるの」
「何? 断ったんじゃないの?」
「そんなことしたら悪いじゃない。借りがあるし」
「向こうもそう思ってるの?」
「そういうわけじゃ… ずっと支えてくれたんだもの。無理も聞いてくれたし。断れないでしょう?」
「そういうのも分かるけどね」
「だから、今電話してるから待っててって言って待っててもらってるの」
「え? この電話? じゃ、そこにいるんだ」
「外で待ってる」
「まだいるって、何で分かるの?」
「流しの前の窓にね」
「うん」
「窓に彼が吸ってる煙草の火が映るもの」
「大した奴だね」
「火がね、ゆっくりと、大きくなったり、小さくなったりするの。」
「ただ、やりたいだけだよ」
「えっ! いっがーい(意外)。室崎君でも、そんな事、言うんだあ。知らなかったなあ」」
「言うだけじゃないさ」
「意外とエロだったりして」
「一人暮らしが長いからね」
「何? カノジョいないの? 本当に?」
「今はいない。ちょっと待って」
あと少しで指先が届く、というところにあった煙草にやっと手が届いたと思ったら、ふくらはぎがつった。痺れた足で爪先立ちになりそのまま電話機を巻き込んで倒れた。足首のところがぱっくりと口をあけてしまったかのような、鈍い、肉の痛み。だが、朝の三時に声をあげてのたうち回るのは、あまりにも滑稽に思えた。だから声は出さずに、煙草に火をつけ、体制を整える。
椅子に座りなおして、右足首を調べる。千切れてはいない。ただ、青白いだけだ。
「もしもし。ごめん」
「誰かいるんじゃないの?」
「まさか。で、奴はまだいるの?」
「…外に? ううん。いないよ」
「って、あきらめて帰った?」
「うーん。そうじゃないけど…」
「痺れを切らした?」
「違う。飲んで寝てる」
「寝てる? 何だ。人が耳を離してる隙にそういうわけ」
「ふふふ」
「やっぱり断れなかったの」
「僕に弁解する事じゃないさ」
「じゃ、切るね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ」