両手に
「…そろそろ」
小さく呟く。そして草太は音を立てないようそっと扉を開け、隙間に体を滑り込ませて外へ出た。揺れた空気が頬を撫でる。まだ闇に覆われた空で星が瞬いていた。
「こんばんは」
『こんばんは、草太!』
目を閉じて、耳を澄ませて、こぼれ落ちる砂のような声を拾う。――それを瞳に映す。その双眸を視認する。そんなことはできない。
自分はごくごく一般的な人だ。ありふれた人。名前がない、通行人の一人。別に大半のことでそれに不満があるわけではないけれど、時々、例えば今のような時、無性にもどかしくなる。なぜ自分は見えないのだろう。
でも、それで良いのだ。なぜなら自分は幸せだから。理由はない。そんなことに理由を持つほど自分は不粋ではないと信じている。
「今日は何があったの?」
『うーん、今日はねえ…』
姿は見えないけれど確かにそこにいる友人。友人は今日あった、ビロードの海を泳いだこと、その中にいたビー玉の目を持った魚たちのこと、浅瀬で見つけた光を放つ砂のこと、全てを輝く声で唄った。
見えなくていい、見えなくていいのだ。なぜなら自分は幸せだから。幸せに理由はない。
『明日も来てね!』
「うん、――きっと来るよ」
天国なんてない。あるのは霞むような幸せと、錯覚しそうになる自分の感情だけだった。
それだけで溢れるくらい心は満たされる。砕かれたであろう星の欠片が、空を染めながら降っていた。