ベイクド・ワールド (上)
第ニ章 不思議で、奇妙で、残酷な出来事は、我々に何を与えるのか、そして、そこにある因果関係
僕は青葉シンボルロードを引き返し、葵区役所の前まで戻った。時刻はもうすぐ十一時になろうとしていた。僕は役所の近くにあるマクドナルドに入った。正午にはなっていなかったため、空いていると思ったが店内はやや混んでいた。注文カウンターにはサラリーマン、OL、老夫婦の順で列ができていた。僕は最後列に並び、順番を待った。フライドポテトの匂いが充満する店内で僕は先ほどのできごとを思い出していた。彼女とあれほど近づいたのははじめてだった。今、思えばどうしてあれほどまで動揺したのか分からなかった。ただ、彼女が平日にも姿を現しているということはとても奇妙なことだった。しかも、制服を着たままなのだから謎は深まるばかりだ。それから僕は少し後悔した。あの時、少しでも会話をしておけばよかった。こんにちは、とでも言っておけばよかったのだ。そうすれば、何かしらの会話が進んだのかもしれない。彼女の謎について少しは明らかになったかも知れない。
注文カウンターで、僕はダブルチーズバーガー・セットを頼んだ。飲み物はコカ・コーラにした。僕の喉はまるで萎れた朝顔のように水分を欲していた。トレイに載せて、席のある二階に登り、カウンターテーブルに座った。二つ左隣には若いサラリーマンがノートPCを開いて、文書を作成していた。時折、小さく舌を鳴らしていた。どうやら、作業があまりはかどっていないようだ。
僕はコカ・コーラを胃のなかに流し込んだ。一度で半分近く飲んでしまった。それほどに僕の喉は砂漠だった。それからダブルチーズバーガーを頬張りながら、フライドポテトをつまんだ。カウンターからは外の景色がまるで見えなかった。ブラインドがぴしゃりと閉められていて、窓にも外が見えないように半透明なテープが張られていた。僕は不思議に思って、テープの隙間から覗く外の風景を眺めた。なるほど、と僕は納得した。建物の屋根には鳥の糞がいたるところに散乱していた。誰も鳥の糞を見ながら、ハンバーガーを食べたり、コーラを飲んだりしたいとは思わないだろう。見たくないものは、見えなければ存在しないのと同じだというわけだ。
ふいに、後ろから大きな音がした。雑音が入り混じった人の声。ラジオだ。振り向くと、四人掛けの席に身なりの汚い男が一人、腰を下ろして、ラジオのボリュームのつまみをいじっていた。誰もが彼に視線を向けたが、男はまるで気にしなかった。テーブルには透明な液体の入ったペットボトルが置かれていた。身なりからみて、おそらくホームレスだろう。ラジオ番組は、若者のファッショントレンドについて、若い女DJがファッションモデルと会話しているだけで、その男が聴くには明らかに不自然だった。僕の左にいる若い男はキーボードを指で叩いていた。作業がはかどらない上に、若い女同士の会話を大音量で聴くことにイライラしているのだろう。舌打ちもさっきよりも大きな音になっていた。僕は特に構わずにラジオに耳を傾けることにした。ただのBGMだと思えばいい。他の客も関わると面倒だと思ったのか、知らないふりをしていた。
『やーん。これ、すっごい可愛い。ピンクのフリルがついてて、レースもあって、すっごい可愛い』とDJがファッションモデルの服装を大袈裟に褒めちぎった。
『ありがとうございます』と言いながらモデルは小さく笑った。
『それで、それで、ついに。ミカちゃんがデザインした服が九月十九日に発売されることになったって小耳にはさんだんですけど。ほんとうなんですか?』とDJは興奮しながら言った。
『そうなんです。夢だったんですよ。自分のデザインした服を発売すること。本当に嬉しいです』
『それで、その。どんな服になるのかはまだ秘密なんですか?』
『はい、申し訳ないんですけどそうなんです。でも本当に可愛い服ができると思うので、楽しみにしておいてほしいと思います』
『楽しみ! 楽しみ! そりゃあ、カリスマファッションモデルのミカちゃんのデザインした服だもの。それはゼッタイに可愛いです。間違いないっ! それで、その服は私には……くれちゃったりするのかなあ? なんてね。そんなことないですよね!』DJはあからさまに笑いを誘うかのような口調で言った。
『あ、はい。そうですね。じゃあ、ユウコさんにはプレゼントします。えっと、ラジオでこんなにご紹介してもらったし』ミカは少し困ったように言った。
『いやいやいや、冗談ですよ! 私もね、自分のマネーで買いますよ。私だけ貰っちゃったらさ、ほらあ、リスナーさんが怒っちゃいますからねー』
ミカは苦笑した。
『いやあ、でも。本当に楽しみですねえ』とユウコは言った。『ああ。本当に残念なんですけど、もうそろそろお時間ということで。ミカさん、今日は本当にありがとうございました』
『こちらこそ、ありがとうございました』
『じゃあ。そうだなあ。最後にミカちゃんにリスナーからの曲のリクエストを言ってもらっちゃおうかな。それでお別れにしましょう! じゃあ、ミカちゃん、曲紹介をお願いします』
『あ、はい。えーと、静岡市葵区在住、たぬ吉ぽん太さんからのリクエストです。えー、あいみょんで、「生きていたんだよな」』
音楽が流れ始めた。曲が流れはじめても僕の左隣の男はまだ指をこつこつとキーボードに叩きつけていた。
曲が終わると、交通情報とニュース速報に切り替わった。交通情報では、道路補修工事による交通止めと、強風によるトラックの横転、渋滞情報について報告した。ニュース速報では、政治に関する話題として重要法案への造反を起こした与党議員が除籍されたことを伝え、東北地方でマグニチュード5.0の地震が起きたが津波の心配はないことを伝えた。
最後に、地域ニュースの話題になり、「本日、午前九時半頃、駿府城跡の中堀で大量の鯉の死骸が浮いているのが見つかり、現在、静岡市がその回収に当たっているが、現在のところ原因は不明である」とアナウンサーが伝えた。
駿府城跡は、徳川家康が隠居した駿河城の跡地だ。駿府城は外堀と中堀、内堀という三つの堀をもつ特徴的な城だったが、明治時代に陸軍歩兵第34連隊を置くために内堀は埋められ、現存するのは外堀と中堀しかない。中堀にはさまざまな色をした鯉が泳いでいる。その鯉が大量死をしたのか。
突然、非常に大きな音が店内に響いた。周りが一瞬にして沈黙した。左隣の若い男がカウンターを両手で勢いよく叩き、すっくと立ち上がったのだ。そのとき、男が座っていたカウンターの椅子が倒れた。握られた拳はわなわなと震えていた。若い男は後ろを振り向き、ラジオ男のところに、つかつかと歩み寄った。そして、ラジオ男のテーブルをさっきとまったく同じ要領で強く叩いた。テーブルに置かれたラジオが倒れ、周波数のつまみが狂ったのだろうか、耳障りなノイズが鳴り響いた。
「なにを、するん、だよ。このばか、やろう」とラジオ男は言った。ろれつが回っていなかった。あのペットボトルの中身は酒だったのだろう。
作品名:ベイクド・ワールド (上) 作家名:篠谷未義