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ベイクド・ワールド (上)

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 この圧倒的な痛みを知っていて、そんなことを言っているのか。無理だ。そんなことできるわけがない。身体中から冷たく気色の悪い汗がふき出してくる。視界が赤と黒で点滅を繰り返す。
「その痛みは、しんぼるを壊すことによって無くなるわ。今、感じている痛みはあなたのものじゃない。自分のものだとあなたが思っているだけ」
 ありえない、と僕は思う。これは僕の痛みであって、誰の痛みでもない。これだけの生々しく、うねるような痛みが僕のものではないなんてことはありえない。そんなことは絶対にありえないのだ。
「あなたが想像している痛みの強さが、あなたが感じとる痛みの強さになる。あなたがその虚構の痛みに気がつけば、痛みはすぐになくなる」
 僕の感じる痛みが、僕の想像する痛み? いや、そうではないはずだ。そうではない。決してそうではない、そう僕は思う。

 僕こそが、痛みそのものなのだ。僕は次第に痛みと同調をはじめる。痛みと痛みが波のように干渉するのではなく、互いに同調し合い、僕の身体全てが痛みに飲み込まれてく。そして、もはや僕は何も感じなくなる。なぜなら僕自身が痛みに満たされているから。
 痛みを感じなくなった僕は、暴力的な棘の先をさらに奥へと差し込んだ。それでも僕は痛みを感じなかった。棘は、傷ついていない筋肉をさらに裁断し、新たな血を流させた。僕はさらに奥へ、奥へと差し込んだ。金槌の柄を両手できつく握りしめて、全体重をかけて、奥へ奥へと鼓動を続ける場所へと棘の先を捩じ込んだ。
 彫刻の外部はただの無機質な金属でしかないのにもかかわらず、内部は生き物のように柔らかい。そこには皮膚があり、筋肉があり、内臓がある。肺は空気の取込みと排出に機能し、心臓は血液を全身に循環させるための機能を担っている。棘は、その皮膚を突き破り、筋肉を裁断し、内臓をぐちゃぐちゃにする。
 気がついたとき、僕が握る棘が振動を始めていた。一定のリズムで細かく震えている。棘の先が脈打つ心臓を捉え、その振動が柄に伝わってきているのだ。しだいにその振動は不規則になっていった、まるで死にかけた憐れな小動物のように。ゆっくりと、ゆっくりとなっていった。

 そして、ついにその振動が消失した。

 僕は棘を抜いた。棘の先には赤黒い何かがべったりとまとわりついていた。その何かとはおそらく痛みの根源のようなものだ、そう僕は思った。
「大丈夫?」と沙希が心配そうに訊いた。
「ああ」と僕は言った。
「痛みはどう?」と沙希が言った。「途中から痛みを感じなくなったように見えたけれど。しんぼるの痛みがあなたの痛みではないことに気づいたの?」
「いいや、違う。しんぼるの痛みはまぎれもなく僕の痛みだった。僕は痛みを乗り越え、痛みを感じなくなったわけじゃない。僕自身が痛みそのものになったんだ。だから何も感じなくなった」
 沙希は何も答えなかった。それから何かを考えるような表情をした。
 ふいに、怒鳴り声が聞こえた。僕と沙希はその声の居場所を見やった。二人の酔っ払いが互いに殴り合っていた。
 『うるせえ』 『ばかやろう』 『死ね』 『くそったれ』というような怒号が行き交っている。それは、静寂した夜にはあまりにも大きすぎた。僕は交番の方を眺めてみた。嫌な予感は的中した。交番の奥の部屋から三十代前後と見られる警官が飛び出てくるのが見えた。
「まずい」と僕は声を出した。
 僕ははじけ飛んだ金槌の頭部を地面から拾い、血にぬれた金槌の柄をスポーツバッグに放り込み、ジッパーを素早く締めた。それから、それを肩に背負った。「行こう」と僕は沙希に言って、沙希の手をもってゲバルトの古書店へと駆け抜けた。

 僕と沙希はゲバルトの古書店に戻ると、二階にあがり、ゲバルトにさきほどの出来事を話した。僕の服にべっとりとついた血はそれが真実であることを証明するのに十分だった。
「とりあえず、今日はゆっくりと休めばいい」ゲバルトは話を切り上げ、僕と沙希を六畳半ほどの畳が敷かれた部屋に招き入れた。
「今日はもう遅い。今日はここで二人でゆっくりするんだ」と言って、ゲバルトは部屋を出ていった。
 沙希は畳の上に寝転ぶと、まるで催眠にかかったかのようにすぐに眠りこけた。それはあっという間だった。沙希の寝ている姿はまるでひだまりにまどろむ子猫のようだった。いつも冬の寒空を目にたたえ、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた彼女だったが、冬の寒空が閉じられるとこれほどまでに無防備にもなるのだな、と僕は思った。なんだか不思議な感じがした。
 だが、僕は彼女のようにひだまりにいる子猫のようにまどろむことはできない。血なまぐさい記憶をたたえたまま、眠ることのできない長い夜を耐え忍ばなければならない。手には生々しい肉の感触がまだ残っている。目を閉じれば、赤と黒が点滅をはじめる。
 ただ、ひとつだけ確かなことは、痛みはもはや僕のなかにはない、ということだ。