ヤマト航海日誌
2016.3.20 ヤマトもいいけどゴジラもね
前回はイカもいいけどチクワもね、という話でしたが今回は、マグロもいいけどシラスもね、という話です。イナリ寿司もおれは好きです。
例によっておれはこのあいだ図書館に行き、森博嗣(もりひろし)という作家の『つぼやきのテリーヌ』という本を見つけて食べ物の本なのかなと思って手に取ってみたら、違った。エッセイ集だった。パラパラとめくっていると『目のつけどころの違いというのが、つまり才能の違いである。』と題する文がある。
読んでみると、この作家の友人には、「天才」と呼べるような人が何人もいるということが書いてあった。『各分野で、それぞれ一流になっていて、才能を眠らせている人なんて、一人もいない。』のだそうである。
まあ、この人から見たら、おれは「天才」じゃないだろうな。そう思って読み進めてみると、彼が「天才」と感じる人はみな、自分が当の本人と話した会話の内容をよく覚えているのだそうだ。その人の本やブログに自分が言ったことが書いてあるのを見つけ、たびたび驚かされるらしい。ちょっと引用してみよう、
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(略)そんなにじっくりと議論をしたわけではなく、食べながらとか、なにか見ながらとかのおしゃべりだ。その中のポイントとなる部分を的確に捉えていて、しかもそのときの状況まで正確に再現している。これは、特に創作系の人、イラストレータ、漫画家、作家、映画監督などに共通するもののようだ。ビデオカメラで撮影したように、頭に記録しているのである。
それから、その何気ない言葉からの連想、展開が凄い。こちらは、そこまで考えて言ったわけではない場合でも、その言葉に潜む深意のようなものを取り出している。この切れ味こそが、彼ら彼女らの才能であり、だからこそ一流なのである。
世の中の大多数の普通の人と比較してしまうのはいけないかもしれないが、まさに雲泥の差という「凄み」を実感する。普通の人は、小説やエッセイからよく一文を引用して、そこが凄かった、みたいなことをツイッタとかブログで紹介しているけれど、みんなだいたい同じ文を選ぶし、こちらにしてみたら、「え、そこなの?」と言いたくなるものが八割以上だ。あとの二割も、作者が意図した「わかりやすいキャッチ」の部分だ。それに比べると、やはり天才と言われる人がピックアップするのは、予想もしなかったものだし、自然に、無意識に語った言葉だったりする。そこが凄い。
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のだとか。ははあナルホドと感じましたね。さすが頭のいい人は、書くことが普通と違うものだなあ。出渕裕がこの先生も認めるだろう「一流」なんて、おれにはとても信じられんが、まあいいでしょう。あれはあれで天才と言えば天才だとはなんだかんだ言いつつおれも思ってますよ。メカデザイン以外は何もやるんじゃねえよとホント言いたいけれどもね。
そう言えば『スカイ・クロラ』もやっぱり前に〈ご自由にお持ちください〉のコーナーに置いてあって、もらって読んでみたんだっけ……すみません、あれはまったく、何が書いてあるのかもおれにはわかりませんでした。だからやっぱり、おれは決して、この先生が「凄い」とか言う人間じゃないでしょう。
さて「天才」と言えば伊藤計劃という夭折したSF作家のことをこの日誌で何度か書いたが(いや、一度だけだっけ?)、人が言うにはずいぶんな天才だったようである。けれども人が、ここが凄かった、ここも凄かった、と讃える部分がおれにはあまりピンと来なくて、前に書いた『ゴジラ2000ミレニアム』を評した文章なんていうのをなぜか繰り返し読んでしまう。
そんなやつはきっとよほどの天才か、ただのバカボンのどっちかだろう。おれ自身は正直に言って自分を埋もれた天才とでも思わなきゃやってられないところがあるが、君がどう思うかは君の問題なのである。
ヤマトもいいけどゴジラもね。『ゴジラ2000ミレニアム』――ええと、略して『ゴ2ミ』と書くが、これを評した亡き作家の文そのものは前にも書いたようにまったくの雑記だ。いい大人がゴジラ映画なんかカネを払って見に行ったのも不思議なら、一体何をムキになってケナす文を書いてネットに出したのか。とても天才がやることとは思えない。
書いていることも低レベルだ。『実写ヤマト』を見た感想を真にボンクラなどこかのやつが、ここがひどかった、ここもひどかった、と文句タラタラに書いて出しているブログを前にちょっとおれも読んでみて、「まあ、そこはね」「うん、そこもね」と思ったことがあるが、それとあまり変わらない。
なぜだろう。ゴジラ映画なんてどうしようもないもので、文句を言ってもしょうがないのは見なくてもわかりそうなものである。キモヲタが見て喜べばいいのである。ただの海苔巻きと思って食ったら泣けるほどにうまかった、なんてもんでも期待したのか? それは無理なの作っている連中の名前を見ればわかりそうなものではないか。
なんでも今、『実写版キューティーハニー』の監督がゴジラを撮ってるそうであるが、どういう人が期待しているんだろう……まあともかく、おれが思うにひょっとして、伊藤計劃という人は自分でゴジラを作ってみたかったのじゃないかしらん――って、もちろん、本気で考えてたわけじゃなく、心のどこかに自分でも気づかぬ形でその思いがあったのかもしれない、という意味だが――。
どうだろう。オレの脚本と演出で〈オレのゴジラ〉を撮り上げる。ドカーン、ギャオーン、皆さん、左様なら、左様なら……おお、結構、男なら、やってみたい夢かもしれんという気が、アナタ、しませんか。
でも無理。と言うか、もし実現しても、周囲からやいのやいのと口出しされて〈ラヂオの時間〉になっちまうに決まってる。渡辺謙から「パーフェクト! パーフェクト!」と泣いて言われて複雑な思いをすることになるのだ。
伊藤計劃という天才には、そうなっている自分の姿が見えてしまったわけかなあ――そんな気がしたりする。この故人は美大を出た人間というから、特撮の職に就いて『そこで自分の映画を』というのも夢というほどの夢じゃなかろう。〈天才はその分野ですぐ一流になると決まっているもので、才能を眠らすことなど有り得ない〉と考える人もいるようだし……。
けれどもいつか、〈オレのゴジラ〉を自分で撮ろうと考えるなら、出渕裕がかつて通った同じ道を行くしかない。
「西崎先生、〈アナタのヤマト〉がヤマトです! 〈松本零士のヤマト〉はヤマトじゃありません! ボクはいつか、ボクが監督で〈西崎ヤマト〉を撮りたいんです!」
「おう、そうかそうか」
となって、周りにいるおんなじようなやつらと一緒に同じようなメシを食う。『〈西崎ヤマト〉はこうでなければならない』というコンセンサスが出来上がり、そして『2199』が出来る。あんなもんしか出来ない。
ゴジラ映画また然りだ。たとえどんな天才だろうと、人は決して、撮りたいものを撮りたいように作ることは許されない。「キミが何を言おうとも、センボンノッコがダメと言ったらダメなんだ」の論理で動く業界で、どんなものが作れるというのか。