卒業
かすんだ記憶の中で、凛と響き渡る声。少しも迷いのない口調だった。
……出会わなかったら、きっとこんな気持ち、知らなかったよ。
返す言葉は、未練の残るものに思えた。自分の耳にすら届かない、深い思考の奥底の、小さな小さな叫び声。
いつまで古い思い出にしがみついているのだろう。
これは旅立ちなんだ。わざと大仰そうな言い回しをして、固く自分に言い聞かせる。
こうなることは決まっていたんだ。
いつかはこの日が来るとわかっていたんだ。
突き付けられた別れは、突然のことじゃなかった。少なくとも、円盤に乗って異星人がやってくるほどには突然じゃなかったんだ。
それでも僕は、今日という日が来ることを、ただ待つことしかできなかった。
いくつかのコードが次第に取り外されていく。彼女と世界とをつないでいたものが、なくなっていく。
このまますべてのつながりが絶たれたら、彼女は一体どこへ行くのだろう。
とりとめのない思考が、僕の頭の中で渦を巻く。
答えの出ない戸惑いが、心の奥に積もっていく。
コードを抜く母の背中がやけに冷たく、非情に見えた。普段あたたかな食事をつくってくれる手が、今は感情の通わない無機質なロボットのそれのようだ。
ごめん、僕にはどうすることもできない。
かつて何度となく選んできた言葉、それが今は重く肩にのしかかる。
……そしてあっけなく、夏の線香花火くらいにあっけなく、彼女は、僕には手の届かないところに行ってしまった。
その日の夕食、何も知らない父は無遠慮に僕に言う。
「いよいよ、中学生だなあ。なんか欲しいものあるか?」
今の僕には、どんな欲しいものもなかった。ただ、彼女を除いて。
「なんもないよ。でも、もうちょっと背が高くなりたいかな」
だが、そんなこと父に望めるはずもない。まして僕は将来ではなく、今、背が高くなりたいのだ。
「そうか、中学ではバスケでもはじめるのか? それじゃあ、とりあえず牛乳だな。なあ、母さん」
そうですね、母もにこやかにうなずく。ほら、やっぱり僕の願いは届かない。けれど二人とも、今の僕の気持ちとはうらはらに、表情は明るかった。少し考えれば当たり前のことだ、僕は卒業したのだから。
彼女との別れ、それは僕自身が決めたことだった。
中学生になるから、そう言うと母は驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく微笑みかえしてくれた。そうね、もう中学生だもんね。
父も母もわかってない。それは僕にとって、とても大きな決断だったんだ。断言してもいい、僕の将来を変える決断だった。だからこそ、別れは深く僕を蝕んでいく。本当にこれでよかったのか、何度同じ問いを重ねたか知れない。
だが周囲の目と彼女とを天秤にかけたとき、いや、その二つを天秤にかけようとしたときから、僕は決心を固めていた。それを知ったら、彼女は果たして怒るだろうか。それとも、しょうがないよねと言って、さびしげに微笑むのだろうか。
――卒業。
小学校を卒業したその日、僕はもう一つの卒業をする。タンスの上には、テレビモニターと離れ離れにされたゲーム機がいた。
「中学校のクラスに突然現れた異星人と、実現ほぼ不可能な課題を乗り越えながら仲を深めていく」そんな内容のシミュレーションゲームのディスクが、今も静かに、あの中に眠っている。
……まさか、ほんとに手も触れられなくなるとは思ってなかった。