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噛めない砂

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「砂を噛むような」とは、まさに自分がしている勉強のことをいうのだろう。茂雄は図書館で自分の席を確保すると、そんな言葉が脳裏を横切るのを打ち消すように、カバンから参考書と過去問題集をとりだし、机に積み上げた。
 それは茂雄にとって、周囲の雑音を遮断する城壁のごときものだったが、その城壁の神通力も、近ごろでは甚だしく衰えている。積み上げたところで、なかなか勉強にとりかかる気力がわかないのだ。
 茂雄がある法律系の資格をとるために勉強を始めてから、三年がすぎた。三十代の半ばを過ぎて勤めている会社での自分の来し方や行く末を考えると、どう考えても出世コースには乗っていないという結論に達したとき、頭に思い浮かんだのは資格をとることだった。
 会社を辞めても食べていける資格をとることは、万が一のセーフティネットにも、会社生活を送る心の支えにもなるはずだ、彼はそう考えた。準備期間が足らず、なかば腕試しだった初回はともかく、翌年も合格点にはるか及ばず、三回目の今年は、ボーダーラインにわずか及ばなかった。
 今年の不合格は彼に大きな衝撃を受けた。母一人子一人で自分を育ててくれた母親が不合格の報の直後に急死したことも大きかった。  今「来年こそ」と気力を振り絞って勉強を続けてはいるが、司法試験の合格者すら満足に仕事にありつけない状況下で、格下の法律系資格をとる意味が、彼にはだんだん見えなくなっていることも事実だった。
「時間と労力の浪費だ。いっそやめてしまおう」という気持ちと「ここでやめれば、これまでの努力と時間が無駄になる」という考えが取っ組み合い、堂々巡りを始めると、いよいよ勉強が手につかなくなるのだった。
 茂雄はため息を静かに漏らし、さっきコンビニで買ったばかりの格闘技の雑誌を、カバンから取り出した。格闘技の熱烈なファンというわけでもないが、かつては大晦日の東京ドームにもいったことがある。プロレスやボクシングには興味が無かったが、人間同士が闘犬さながらに牙を剥き、噛みつきあう格闘技は性にあった。自分にはとうていできないという憧れがあるのかもしれない。彼は雑誌をそのまま一時間ほど読みふけった。

「試験勉強の用意は準備万端整えたのち、さあ始めるかと思いきや、やおら雑誌を読みふける。一種の戯画ですね。しかし、真実の一断片かもしれません」
 茂雄の隣から、突然低い刺すような声が響いてきた。茂雄が驚いて声のする方を向くと、豊かな白髪をオールバックになでつけた老人が、黄みがかってはいるがよい歯ならびを見せながら、にっこりと笑っていた。顔はにこやかではあったが、老人はひどく痩せており皮膚も粉が吹くように乾ききっていて、一種の凄絶な印象があった。
 茂雄は、この老人をどこかで見たことがあると思ったが、それが思い出せないうちに、老人が言葉を重ねてきた。
「これは失礼。でも、あなたの様子がとても興味深かかったので」老人は茂雄に向かっていった。
「ところで、あなたはなんの勉強をされているのですか。もっとも、いまは雑誌を読んでいるだけのようですが」
 老人の揶揄を含んだ言葉に反発を感じた茂雄は、できるだけぶっきらぼうに、しかもつぶやくような小さな声で、自分が勉強している資格の名前を答えた。
「近ごろは、そんな資格が流行っているんですか」
「特に流行っているわけじゃありません」
「じゃあ、なんで勉強しているんですか」
まさか「会社で出世の望みがないから」とは答えられず黙っていると、老人は追い打ちをかけるように問いかけてきた。
「子供の頃から、それになりたかったのですか」
「まさか」
「なりたくもないもののために、なぜ勉強をしているのですか」
茂雄は腹を立てた。
「そんなことを答える必要はありません」彼は小さく叫ぶと、雑誌と勉強道具をつかんでカバンの中に荒々しく放り込み、席から立ち上がろうとした。茂雄と老人との不穏な展開に気づいた周りのたちが見つめる中、老人はやおら口を開いた。
「わたしがさっき『真実の一断片』といった意味を、聞きたくありませんか」

茂雄は、その言葉に気圧されるように中腰のまま固まってしまった。
「あなたにまず伝えたいのは、人生には楽屋はなく、めいめいが自分が主役の舞台に立っているということです。その舞台の上では、生まれてから今に至るまでの人生のドラマは全て一本の糸のようにつながっていて、死ぬまでとぎれることはありません。入学式や、結婚式のような晴れの舞台も、恋人とのデートのような楽しい時間も、もちろん資格勉強をしている時間も、すべてがひと繋がりのかけがえのない時間の連続なんです」
「結局、何が言いたいんですか」茂雄は苛々しながら口を挟んだ。「つまり、時間を惜しみ、もっと身を入れて勉強しろということですか」
「そういう受けとめ方をしていただいてもいい。逆に」
「逆に?」
「もっと意味のある時間の使い方はないだろうか、ということも考えていただきたいのです。こんな言葉があります。『あした死んでも良いように生き、永遠に生きるように学べ』と。あした死ぬことは十分あり得ることだからまだ良いにしても、永遠に生きる人間などいません。つまり、前段にはリアリティがありますが、後半にはそれがないのです。有限な人生の時間の中で、学びには常に時間つまり命を浪費するワナがあるということを知っていただきたいのです」
「今の世の中、どこを探しても学ぶことを否定する人などいません。立派で、知的で、推奨されるべきものである。学んでいる時間は、次の人生を飛躍させる投資の期間とも言われる。確かにそうです」
「しかし、はじめに私がいった言葉を思い出してほしい。人生には楽屋などなく、一瞬一瞬がかけがえのない表舞台の連続なのだと。『将来への準備』『真摯な学び』といった美辞麗句で、大切な時間つまり命そのものを、無駄にしてはならないのです」

「へんなじいさんだったな。一人であんなにいきり立って」
すっかり日も暮れた自宅への帰り道、茂雄はつぶやいた。言いたいことを言い終わったらしい白髪の男性は、茂雄に一礼して去っていった。
 茂雄はすっかり毒気を抜かれたようになり、勉強道具を片づけると図書館じゅうをさまよい、さまざまなジャンルの本を、手当たり次第に斜め読みした。そのうち興味をひかれた数冊を借りることにしてカバンの中に押し込んだ。
 参考書、過去問題集、格闘技雑誌、そして借りた本がひしめきあい、はちきれんばかりになったカバンはひどい重さで、駅から自宅へのゆるく長い坂道を登りながら、茂雄は息を切らした。ふと見ると、歩道の脇にブロックでコの字型に区切られた小さなゴミ集積場があり、そこには生ゴミや新聞紙や古雑誌の束が崩れかけたまま置かれていた。
 彼は立ち止まると、少し考える風だったが、カバンを開け参考書と過去問題集だけを取り出してゴミ集積場に置いた。その置き方には、まるで何かとの永訣の儀式のような静謐さがあった。
 カバンが軽くなったので茂雄の足取りは楽になったが、その軽さの代わりに何か重いものを背負わされたような気がした。
 それは、試験勉強のような期限はないが、数段真摯に取り組まなければならない人生の課題が目の前に立ち現れてくる思いだった。
作品名:噛めない砂 作家名:DeerHunter